SNSのある種のつまらなさについて

  たまにFacebookTwitterなどで、「〇〇について詳しい方いらっしゃったらぜひ教えてください!」という投稿を目にすることがある。

   人望のある人間や信用のある人間、社交性のある人間、平たく言えば「リア充」とも言えるような人々なら、その投稿にたくさんのコメントがついたり、「自分は知らないけどこの人なら知ってると思う!」というような助けを得ることができる。
   けれどもそうではない人間たちは、何のコメントももらえずに投稿はスルーされるだけ。私もまた、そちら側の人間だろうと思っている。だから惨めになるのが嫌で、SNS上にそういう相談に関する投稿はしないことにしている。
   友達の数が1000人を超えるようなごく一部の人気者の人々にとっては、ソーシャルメディアGoogle以上に利用価値のある情報サービスだと言えるだろう。皮肉を込めてそれに「絆って大切。」という形容を与えてもいい。
   しかしここで考えが止まってしまっては、よくある「非リア充の鬱憤や僻み」に過ぎず、ありきたりすぎて詰まらない。それは上に書いたようなこと以上に詰まらない月並みさだ。だから視点を変えてみる。
   改めて考えてみると、SNSを使って情報を集める場合に求められるスキルというのは、「適切な語句を知っているかどうか」といったことではなく、検索とは直接関係のないスキルばかりだ。つまり人当たりのよさや知名度、社会的地位、これまでについた「いいね!」の数などなど、どれもこれも「何かを調べる」ということとは直接関係のない要素ばかりなのに、それらが「調べる」という行為の結果を大きく左右してしまう。
   そんなよくわからないスキルによって得られる情報に差が生まれるような仕組みは、私は好きではない。この感情の由来が、単にリア充な人々への僻みに過ぎないのだとしても、やはり好きではない。誰が使っても同じように機能するから「優れた仕組み」なのであって、一部の人間にしか使いこなせないようなツールは、まだまだ改善の余地があると考える。
 Facebookを作ったマーク・ザッカーバーグは、今ではすっかり有名人だから、どんな話題であれ彼が何かを投稿すれば、大勢の人間からレスポンスが返ってくる。彼はすっかり「あちら側」の人間だ。しかしFacebookを作った当時の彼はどうだっただろう。どちらかといえば「あちら側」にはいない人間だったのではないだろうか。何か相談したいことがあっても、世渡りのうまい人間のようにうまく立ち回ることができず、自分の力だけで解決したり、運良く誰かの助けを得られることを祈るというような、おそらく世界中の大多数の人々と同じ側にいたのではないだろうか。彼は有能な人間だったから、自分の力だけでも大抵のことを解決することができたかもしれない。しかし有能な人間というのはごく一部だ。

 ここで多少SNS側のことを気遣うようなことを言うとすれば、仮にごく一部の人間しか使いこなせないような仕組みだとしても、その人たちが何らかの利便性 を享受しているのなら生み出された価値があったということは言えると思う。インターネットは広大であって、たとえマス向けではなくかなり限定的なターゲット(「限定的なターゲット」とは何とも同語反復的である)が相手であってもマッチメイクが可能であるという特徴があることは、既にクリス・アンダーソンロングテール*1で指摘済みだ。

 ただその一方で、SNSには人間関係スキルが問われるという点は、ソーシャルメディアという存在の本質を考えるとおそらくこれからも変わらないということも確かである。これが不確かであるように思えるなら、SNSに可能性を感じもしたのであろうけれど、おそらくこの点は今後も変わらないということは、明日の天気について気象庁が行っている予測と同じくらいの精度で確かであるようにしか思えない。だから「つまらない」のだ。SNSの普及によって促進された、人と人のつながり(ソーシャルグラフ)は、実際のところ思ったほどうまく活用されてはいない。もちろんソーシャルグラフを有効に活用している企業は少なくないだろう。しかしSNSの利用者の側はそうではない。もしも自分が「人気者」の側にいないならば。

   そこで私はむしろ、SNSに取って代わられる前のプラットフォームだった検索エンジンの可能性というものが気になる。そこでは人気者でなくても、安心して情報を集められる仕組みがあるからだ。