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これもひとつの老獪?

 本当は答えがわかっているのに、あえて誰かに質問して、その人に答えを出させ、それに賛成するという手順を経ることがある。「自分で答えがわかっているのに、どうしてわざわざそんな面倒を」と思われるかもしれないが、ここに「承認欲求」という補助線を引いて考えると筋が通る。

 相手の方は、自分が出したと思っている答えに賛同してもらえたことで嬉しく思い、それによってその人との今後の関係が円滑に進む。普段からこういう風に潤滑油をさしておけば、いざというときに保険がきく。もしも相手がすぐに答えを出せそうにない場合、こちらから適当に助け舟を出す。しかし最終的な判断は相手にしてもらう。そこがミソだ。円滑な関係によって得られるものに比べれば、自分と相手のどちらが答えを出したかなど大した問題ではない。利のいい保険である。世の良妻賢母の方々、或いは賢者というに相応しいご老人方は、こんなことは日常的にやっているのではないかと拝察している。そういう人々に比べれば、私などまだまだ遠く及ばない。

 ともあれ、このように一見不合理のように見えて、実は一定の合理性を持っていることがらを見つけたとき、私は「老獪」という言葉の意味が少しわかったような気がする。

 私はそんなにあれこれ挑戦するタイプではなく、どちらかというと読書をしたり考え事をしたりして過ごすことの多いタイプだから、経験値は他人よりずっと少ない方だろう。そんな私が、数々の経験を経た人生の後半で見出されることの多い「老獪」を理解するには程遠いという気もする。けれども時々、大抵は何かの偶然が原因で、老獪に触れることがある。

 世の中には、一見不合理に見えたなら、もうそれはどうしたって不合理だと思い込んでしまって、不満を募らせていく人も少なくない。けれどもそこで一歩引いて、物事を見つめ直して、見えにくくなっている合理性を見出すことができれば、人生はもう少し生きやすいものになるだろうと思う。