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これもひとつの老獪?

27歳 コミュニケーション 以前のこと 内省 日常 東京

 本当は答えがわかっているのに、あえて誰かに質問して、その人に答えを出させ、それに賛成するという手順を経ることがある。「自分で答えがわかっているのに、どうしてわざわざそんな面倒を」と思われるかもしれないが、ここに「承認欲求」という補助線を引いて考えると筋が通る。

 相手は「自分が出した」(と思っている)答えに賛同してもらえたことで嬉しく思い、それによってその人との今後の関係が円滑になるのだ。普段からこういう風にして潤滑油をさしておけば、いざというときに保険がきく。もしも相手がすぐに答えを出せそうにない場合、こちらから適当に助け舟を出す。しかし最終的な判断は相手にしてもらう。そこがミソだ。世の良妻賢母の方々、或いは賢者というに相応しいご老人方は、こんなことは日常的にやっているのではないかと拝察している。彼ら・彼女らに比すれば、私などまだまだ遠く及ばない。

 しかし、こういう「一見不合理のように見えて、実は一定の合理性を持っていることがら」を見つけたとき、私は少しだけ「老獪」という言葉の意味がわかったような気がするのだ。

 私はそんなにあれこれ挑戦するタイプではなく、どちらかというと読書をしたり考え事をしたりして過ごすことの多いタイプだから、他人より経験値は少ない方だろう。ただでさえ経験値の少ない私が、人生の後半において見出されることの多い「老獪」を理解するのは、とてもとても程遠いという気もする。けれども時々、大抵は何かの偶然で、老獪に触れることがある。

 世の中には、一見不合理に見えたなら、もうそれはどうしたって不合理だと思い込んでしまって、不満を募らせていく人も少なくない。けれどもそこで一歩引いて、物事を見つめ直して、見えにくくなっている合理性を見出すことができれば、人生はもう少し生きやすいものになるだろうと思う。