「意識が高いか低いか」なんて考えるだけ時間の無駄じゃないかと思う

トピック「意識高い」について

 

 私がまだ学生だった頃、「意識高い系」スイーツ(笑)の二つをネット上や大学のキャンパス内、あるいはスタバでの会話や電車の中での会話など、いろいろな場所で耳にした。私は福岡県出身だが、地元ではどうも物足りなさのようなものを感じ、浪人して東京に出てきた、典型的な「お上りさん」の一人だろう。国立大を目指しながらも、センター試験で失敗して私大に入り、文系だったこともあって、大学でも周りは勉強しない人たちばかりだった。いや、している人はいたけれども、テストで良い評価を得るためとか、就職で必要だからとか、そういうことが理由で、それは否定しないけれども、そういうモチベーションで勉強している場合は、どうしても「上限」がある程度決まってきてしまって、「もっと上」とか「さらに先」を考えたりはしない。必要な水準を満たせばそれでよしという感じだ。まあそういうのが生きていく上でスマートなやり方なんだろう。そういうわけで、私はこっちへ来てからもある種の「物足りなさ」の感覚は消えなかった。そんな私は、はっきりと他者から言われたことこそないけれども、「意識高い系」というカテゴリに入る人間なのかもしれない。これまでを振り返ってみて、あるいは現在でも、周りの人々よりも自分の方が求める水準が高いという感覚はある。以前に比べれば少しは対処の仕方を覚えたけれども、自分と周囲との期待水準のギャップで苛立ちを感じることは未だにある。

 しかし、そうだとしても、私はこの「意識高い系」問題については、当初から一貫してある姿勢を持ち続けている。それは、「そんなの気にしてもしょうがない」ということだ。「意識高い系」問題で検討する余地があることといえば、それによって周りの人々に要らぬ迷惑や不快感を与える場合があるかどうかということくらいだと思っている。もしそういう場合があるとしても、意識高い系について何か発言をしている人たちの中に、それに対する有効な対処法を提示している人などいない。たいていは不快感や皮肉を示す内容ばかりだ。そういうものに付き合っていても、はっきり言って時間と労力の無駄だ。だから自分で反省して、「これは直すべきだな」と思ったところは直していけばいいだけのことではないだろうか。

 社会の中に生きる人々について、草食系とか意識高い系とかノマドとか悟り世代だとか、何かしらのラベルを貼って議論を展開するというのは以前からずっとあるが、どうもどれもこれも胡散臭い気しかしない。まともに関わっていても何かえるものがあるとは思えない。それならば蘇我氏の興亡についての本を読むとか、『7つの習慣』は本当にまともなのかについて検討するとか、そういうことに時間をかけたいと思う。

 

 変な議論に時間を取られている暇があったら、自分が気になることに打ち込んだり、改善すべきところはないか反省したりする方がよほど建設的だ。端的に言って、「意識高い系がめんどくさい」とか、「意識高い系を馬鹿にしてはいけない」とか、そういう類の議論に私は生産性を感じない。暇なの?