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私と母の仕事に対する考え方をめぐって

 先日久々に母と電話をした。話し出すといつも長くなってしまい、だいたい2時間くらいはすぐに過ぎていって、長い時には4時間近く話していることもある。よくもまあ飽きずにこれだけ話が続くものだと自分でも思う。

 その電話の中で、仕事について近頃考えていること、感じていることなどをいろいろ話した。こういうところは妥協することはできないとか、こういうところは認めるとか認めないとか、だいたいは倫理観に関することで、夜も遅かったので一通り話し終わると電話を切って眠った。

 翌朝母からメールが来ていて、「仕事に対する考え方が自分と似ている」と書かれていた。似ているのは親子だからなのか、どちらも神経質なところがあるからなのか、或いは母と私とで置かれている環境が似通っているということなのか、要因ははっきりしないけれども、私はそれが妙に気になった。

 母は、今の私と同じ年の頃には、もうすでに働き始めて数年が経ったというところで、母は高校を卒業するとすぐに就職し、大学へは行っていない。一方で私は、一浪して大学へ進み、大学院を目指したが受験に失敗し続け、今は個別指導の塾でアルバイトをして生活しているフリーターだ。こうして書き記してみると、母と私の通ってきた道は随分と違っているように思える。

 母は読書が好きで、本から何かを学ぶということのできる人間であるが、私は母よりも随分たくさんの本を読んできた。だから読書の経験でも私と母とでは違っているように思える。もちろんたくさん読んできたからといって、私が母よりも多くのことを学ぶことができたかどうかはわからない。どれほど多くの本を読もうとも、一冊一冊の読書経験が薄っぺらであったなら、やはり学びは少ないということになる。

 母はどうか知らないけれども、私はあまり本を読み返すということをしない人間だ。ごく一部の本は読み返すけれども、大抵の本は一度読まれるとそのまま読み返されないまま、しかし捨てられたり売られたりすることもあまりないまま、どこかに眠り続けるという運命をたどる。それは一つには、一度読むとその内容を割と覚えてしまうから、再び読もうという気になれない(「一度頭に入れたのにどうして同じことをもう一度繰り返すのか」という気分が私の中にある)からだろう。そのため、仮に読み返す場合にも、初めに読みきって随分してからになることがほとんどだ。

 専門知識の類いであれば、私は母よりもいくらかは多く知っている自負が持てるけれども、人間や人生についてのものの見方、考え方については、母が母なりに学んできたのとそう変わらないのかもしれない。どんな経験をしたり、どんな本を読もうとも、それについて本人が深く考えるということによって、そこから受け取れるものの質は決まってしまうということなのだろう。

 本を読んで、自分の経験からも学び、また自分の周りにいる人間たちの経験にも耳を傾け目をこらし、より多くのことを学ぼうと意識してきたつもりが、まだまだ私も浅学であって、学んだ気になっているだけのことがまだまだたくさんあるんだろう。そんなことを感じた。

 母は理科系の科目は駄目らしいけれども、自分はそうでもない。いや、正確に言えば、私も高校時代は文系だったけれども、大学に入って経済学を学ぶにつれて、経済学のモデルを記述するのに使われている数学を学ぶにつれて、徐々に数学それ自体に対する興味が湧いてきたり、コンピュータに対する興味から専門書を読み続けるうちに理科系のノンフィクションをよく読むようになったりして、文理系という感じに変わってきた。とはいえ出発点が文系だったから、まだまだ「理系」と呼べるには不十分な数学力である。それでも科学や数学を学び続けることを通して、まだ母が学びきれていないことをも学ぶことができれば、私も母から生まれてきた意義があったと少しは自信がもてるのかもしれない。