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バッタと蛇

 バッタはどんどん跳ねる。ひとっ飛びであっちやこっちまで行ける。

   それに対して蛇は、地上を這い、一気に隔たったところまで進むということはできない。

   私自身はバッタの側か蛇の側かどちらだろうと、ふとそんなことを考えた。 

 誰かと話していて、「◯◯くんは論理的だね。」と言われることがある。他者が自分に対して「論理的」(logical)と評価する場合、その人自身が論理的でない場合には注意が必要だと私は思っている。「論理的」という言葉を、「頭がいい」とか「理屈っぽい」と一緒くたにして使っている場合が少なくないからだ。少なくとも自分のイメージする「論理的」という言葉の意味とは違うイメージで使っている場合が多い。

 一方、相手が論理的である場合には、「論理的」という評価は妥当なものと受け取ってよいと考えられる。…と、まあこういうことを考えている時点で、自分は論理的な考え方の人間なのかもしれない。しかし、ことはそう単純でもない。

 「論理的」というとき、私にとってそれは一歩ずつ着実に積み重なるもの、鎖のように、ある輪と別の輪が一つずつ繋がって連なっているものというイメージで捉えられる。aだからb。bだからc。cと、それからここでdが加わるからeという風に、どこからどこへ進むときにも、決して無理なところがない。誰が見ても一目瞭然、どう見たってそうきたらそうとしか考えられない。そういう風にあることと別のあることをつなぐとき、それが「論理的」であると。

 それはまるで、決してジャンプすることのない蛇のごとく進む。地を這うように、着実に。一挙に遠くに行くことはできなくても、大きな失敗はない。一歩ずつ進みながら、間違った道を選ぶことのないように、慎重に進んでいくことができる。共感者も少なくない。

 先ほど「そう単純ではない」と書いたのは、数学の問題を解いていたときに感じたことがきっかけで、数学というのは確かに論理の学問だけれども、私が答えを考えているときには、一旦ゴールまで一気に飛んで、後からゴールとスタートの間が埋まっていく。それは蛇の側でなく、バッタの側の感覚で、草むらのここから、あそこまで、ひとっ飛びで飛び越え、そうして飛び越えてしまったその後で、自分が飛び越えたその距離を振り返り、そこに何があったのかを後から見つける、そういう仕方で考えているようなところがある。バッタは自分の体の数十倍もの距離を一度に飛び進むことができる。

 バッタも蛇も、今地球上に生き残っている。生き残っているということは、それぞれがそれぞれなりに、環境の変化に適応し続けることに成功してきた証だろう。だから、ジャンプすることと地を這うことのどちらが生存に有利であるかは、自然界では優劣がつけがたいということなのだろう。

 そしてまた、そんなバッタや蛇を上空から見下ろす鳥たちもいるし、バッタと蛇とは無縁に暮らす貝や魚たちもいるし、或いはこうして、「私はどっちなんだろう」などと考えあぐねている私のような人間もいる。こうした動物たちが酸素を吸って生きられる環境を作っている植物たちもいる。どれがいいというわけでもなく、どれも今の地球で生き残っている点では対等なのであって、それがまた多様性(diversity)ということでもあって、私たち人間は、その多様性の中で、バッタのようにひとっ飛びに飛躍する頭のはたらきを「想像力」とか「イノベーション」と呼んだりしている。

 それらは、単にバッタ的であるだけでは後世にまで引き継がれず、蛇的に、隙のないロジックで間を埋められなければ、広がってはゆけないというところもある。

 ただし蛇は、立体的な動きのできない蛇の場合には、視力がかなり弱いらしい。ものが見えないというのは私は嫌なので、やっぱりバッタの方がいいのかなあ。