unlearnとトラウマ

 昨日くらいから色々と反省するところがあって、今自分がしている仕事の意義を考え直している。その一連の考察の一部が、ちょうど1本分の記事くらいの分量の内容になりそうなので、ここにそれを切り出して、まとめてみようと思う。

 私は現在、アルバイトをしている個別指導塾で、中学生と高校生の全科目を教えている。高校生の方は英語と数学と世界史がメインだ。このアルバイトを初めてもう5年が過ぎたから、一年留年した大学にいるよりも長く、バイト先で過ごしたことになる。「滞在時間」の方で考えてみると、まだまだ大学で過ごした時間の方が多いとは思う。

 というのも、私は大学にいた頃には友達とあまり遊ぶことはなく、大体は大学図書館にこもって専門書を読み漁っていたからだ。当時は経済学やコンピュータ科学のテキストを中心に読んでいて、大学院レベルの学生が使う様なテキストを見つけては背伸びをしてせっせと読んでいた。

 そんな風にして「上」ばかりを見ていた私のような人間が、塾で中学生や高校生を相手にすれば、「中学(高校)ではここまでしかやらないのか。ここからが面白いところなのにつまらないなあ〜。」という風に感じることが少なくなく、教える内容の簡単さに辟易してしまう…ということが起こりそうなものだ。私がアルバイトをしていた当初はまさにそんな感じで、中学生の英語や数学はあまりにも簡単で、「手応え」のようなものを感じることができなかった。そんな私がここへきて反省をすることになったのは、「unlearn」ということについて考えるようになったことがきっかけだった。

 この言葉について考えるとき、その思考の脇にはいつも、アインシュタインの次の言葉が横たわっている。

Education is what remains after one has forgotten what one has learned in school. The aim must be the training of independently acting and thinking individuals who see in the service of the community their hightest life problem.

(教育とは、学校で学んだことを一切忘れてしまった後に、なお残っているもの。そして、その力を社会が直面する諸問題の解決に役立たせるべく、考え行動できる人間を育てること、それが教育の目的といえよう。)

 

 さて、いきなり話題が飛ぶようだが、ここで「トラウマ」(trauma)の話をしよう。フロイトによれば、神経症患者はトラウマに引きずられ、ある特定の事柄を反復してしまう。例えば、暴力的な父のもとで育った娘が、やがて成長し、そして恋人ができたと思ったら、その男性は父に似た暴力的な男性であって、やがて彼と別れて新しい男性を見つけたと思ったら、今度もまた同じ様に暴力的な男性だった…という様な話である。

 トラウマは、自分自身の幼い頃の経験を無理に抑え込み(抑圧)、自分ではそんなものに影響を受けているとはつゆ知らず、それでいて確かにそこから逃れられていないような、そういうものだ。フロイトは晩年の著作である『モーセ一神教』の中で、この様に抑圧されたものが、時間が経ってやがて表に現れてくることを指して「抑圧されたものの回帰」と表現した。

 さて、unlearnの話とトラウマの話が一体どう結びつくのか。トラウマについて考えられるときには、患者が何かを反復していて、その反復の原因がトラウマにあるということがわかると、トラウマを生み出している「原体験」についての解釈を、精神分析医と患者が対話することによって書き換えると、反復から抜け出すことができるという風に説明される。

 精神分析医が患者の神経症を快方に導く手助けをするときには、何か反復されているものがないかを考え、それを見つけると、その反復を生み出している源として、原体験を突き止め、それについての患者の解釈を変えるという風に進んでいく。ここで手がかりは「反復されているもの」であって、もしも反復されていないものが患者の行動に大きな影響を及ぼしているとしても、それは精神分析医の側からはわからないままになってしまう。

 そういう風に、精神分析医の観察からこぼれ落ちてしまったものをどうやって掬い取るかと考えると、一度学んで理解したつもりになっている、自分の中の色々な事柄をもう一度一から学びなおすという仕方が有効なのではないかと、ふと思ったのである。

 このようにして、私の中でunlearnとトラウマとが結びついた。「結びついた」と書くと、何か一対一で対等な関係であるかの様な印象を与えるかもしれない。しかし厳密には、前者が後者を包み込んでいるという関係ではないかと思う。つまりunlearnの対象となるものの一部に、反復されているものがあって、それがトラウマという形で精神分析医との治療の対象になっているのだ、と。

 そういう風に考えるとすれば、反復されるものだけでなく、反復されないために気づかれないままになってしまっているもの、反復こそされないが、しかしそのために却ってその人をより根本から制約し続ける様なものというのがあるのではないか、と思えてくる。そしてそういうものが、反復されるもの、つまり「トラウマ」(或いは神経症)として治療の対象になるものに比べ、対処の優先順位が低いとは限らないとしたら…。

 unlearnとかトラウマということに対する私のこうした思考を展開する手助けとなったのが、昨日購入した岸田秀『史的唯幻論で読む世界史』*1の冒頭で、マーティン・バナールの『黒いアテナ』*2に依拠して展開される、古代ギリシャは黒人文明だった」という主張である。このテーゼは、高校までの世界史の学習からすれば異端的であって、もしも私がこの書を手に取ることがなかったならば、私の頭の中では「古代ギリシャは白人の文明である」というテーゼが、書き換わることはなかっただろう。

 今回の場合は古代ギリシャだったけれども、私の中にはまだまだ沢山の「未修正テーゼ」が山の様に溜まっているのであって、しかもそれらのほとんどには、おそらく「当たり前」という様な名前のラベルが貼られており、私とは考えを異にする他者との出会いや、私自身を大きく揺るがす様な大きなショックというものを経験しなければ、それらが新しいテーゼに取って代わられるということはないままになるだろう。私は欲張りだから、死ぬまでの間に単に英語や数学だけでなく、理科や社会についても、そこから専門分化した色々な領域の考え方というのを吸収していきたいと思っている。少なくとも総合大学の全学部の学部レベルの内容くらいは網羅したいと思っている。

 そんな心づもりをしている私にとって、unlearnすべきものの数は膨大であって、その膨大なものの数に応じて、私の心がより豊かになったりより自由になるのだったら、こんなに幸福なことは他にないだろうと思う。

*1:

史的唯幻論で読む世界史 (講談社学術文庫)

史的唯幻論で読む世界史 (講談社学術文庫)

 

 

*2:

黒いアテナ―古典文明のアフロ・アジア的ルーツ (2〔上〕)

黒いアテナ―古典文明のアフロ・アジア的ルーツ (2〔上〕)

 
ブラック・アテナ―古代ギリシア文明のアフロ・アジア的ルーツ〈1〉古代ギリシアの捏造1785‐1985 (グローバルネットワーク21“人類再生シリーズ”)

ブラック・アテナ―古代ギリシア文明のアフロ・アジア的ルーツ〈1〉古代ギリシアの捏造1785‐1985 (グローバルネットワーク21“人類再生シリーズ”)

 
黒いアテナ―古典文明のアフロ・アジア的ルーツ〈2〉考古学と文書にみる証拠〈下巻〉

黒いアテナ―古典文明のアフロ・アジア的ルーツ〈2〉考古学と文書にみる証拠〈下巻〉