不景気とシャッフル

 昨日は晴れていたからロードバイクで通勤しようと思っていたのだが、どうも頭がクラクラするので、結局電車で通勤した。バイトを終えて最寄駅に着き、駅前のコンビニに立ち寄った。コンビニ弁当と野菜ジュースと、鉄分入りのヨーグルトとR1のドリンクタイプと、それからクランキーを抱えてカウンターの向かいの並ぶ場所に立っていると、「お待ちのお客様こちらへどうぞ〜」という声が聞こえたので、そちらへ進んだ。顔の見知った店員が会計だった。その店員は以前にもなんどか会計を担当した男性で、いかにもコンビニ店員という感じのしない、むしろコンビニ店員っぽくない印象の男性であった。立ち居振る舞いがどことなく優雅らしいところがあって、それはある人からすると「ナルシスト」という形容をあたえられるようなものだろうとも思うけれども、私はそういう風には思わず、むしろそれを微笑ましい、或いは親しみを覚えるものとして眺めていた。

 それほどたくさんの店舗を利用しているわけではないけれども、私はわりとよくコンビニを利用している。人間観察を好む私にとっては、コンビニ店員と一口にいってもいろいろな人がいて、外国人も中にはいる。「いろいろ」と書いたけれども、その一方で、やっぱり「らしさ」というものがあるように感じられもする。つまり、「ああ、この人はコンビニ店員らしいな」と思わせるような人というのがほとんどだ。「らしさ」ということについて、私はここでもう少し何か書くべきなんだろうけれども、ここではあえてこれ以上は書かずに、話を先に進めようと思う。

 私が昨日の夜に会計を担当してもらったそのコンビニ店員の男性は、そういう「らしさ」にまみれていない、或いは身にまとっていない、そういう雰囲気のある男性だった。病院にいけば、そこで初めて人は病人になってしまうのと同じようにして、コンビニで働いているうちに、人はどんどんコンビニ店員らしくなっていくものだと思う。

 これには裏打ちがあって、私自身、大学生だった頃にコンビニでアルバイトをしていたことがあった。続けるうちに動作が手慣れてきて、客に対する受け答えも危なげないものに変わっていった。私はどんどん「theコンビニ店員」になっていった。コンビニを辞めてもしばらくの間は、そのコンビニの他の店舗に行くと、入り口の自動ドアが開いた時に流れる特有のメロディーに反応して、ついつい「いらっしゃいませー」と言いそうになるということが続いた。良くも悪くも職業病が完治するには時間がかかる。

「らしさ」というのはその時代その時代に文化や通念が形作る「典型」なのであって、典型は必ずしも最善を保証しない。人間以外の生物の社会では、環境との関わりを通して、自然の側が最善を選択する。個々の種は、或いは個々の個体は、自分が生き残ると必ずしも自覚していなくても、そのうち選択の時が訪れれば、自然は「あなたがベスト」と言って選んでくれる。

 しかし人間はそうではないだろう。人間は自分で何が最善かということを自覚的に考え、自然の側に選んでもらう前に、自分で先回りして最善を見つけることができる。進歩(progress)というのはそういうことではないか。だから、自然が判断を下す前に先回りして最善を見つけようとするならば、典型を選んでそこに安住するようでは駄目だ。先回りするために前に戻る必要がある。反省は懐古と異なり、前に進むためのものだ。「らしさ」が典型であって、典型は最善とは限らないのだとしたら、私たちは「らしさ」を疑う必要がある。

    私たちはまだ「らしさ」を身に付ける前には、早く「らしさ」を手に入れようと握捉する。

新人コンビニ店員は早く1人前のコンビニ店員になろうとし、

新人作家は円熟した作家に憧れ、

大学院生は教授に憧れ、

新米銀行員はかっこいい頭取に憧れる。

それぞれの領域で、それぞれの人が「見習うべき先輩」をトレースしようとする。トレースすべき相手と自分との距離を測って、なるべく早くその距離をゼロに、或いはその更に向こう側に行こうとする。それはそれぞれの「典型」に身を染めるということだ。典型が典型を再生産する。典型は、自然選択で生き残った個人であることが多いから、「生き残っている以上はそれが最善なのだ」と判断される。或いは、人間が人工的に作り出した自然選択の場である「市場」の中で、消費者や企業からの「選択」という形の投票・評価が、その個人の価値を保証するという風に考える。最善の判断は自然に任せる代わりに、どこの誰かは分からない、たくさんの人が参加する市場というところに委ねるようになる。どれが最善かは私にはわからない。それは市場、或いは消費者が判断することだという風に。そんな消費者による投票システムの中で生き残り、特定のポジションについているということは、あの人はすごい人だという証だと考えられる。しかしそれは、先回りしているとはいえない。progressの「pro」(前へ)というニュアンスがない。自分が詰まれる前に先手を打つ棋士の気魄が薄い。市場が評価を下す前にその人がすごいということを見抜いていたなら本物だったのに、結果が出た後でそれに合わせているわけだから、ミネルヴァの梟であり、後出しじゃんけんだ。

   「らしさ」のないコンビニ店員は、そういうところから隔たったところにいる。彼はもしかしたら、そのコンビニの先輩からは、早く「らしさ」を身につけるよう急かされているかもしれない。それでも私は、彼はきっと、「ナルシシズム」と形容されかねない彼の特質の中に、「らしさ」に塗れずに彼自身の「個性」という「らしさ」が残ると思っている。それはこれからも、彼のコンビニ店員らしからぬ優雅さを湛えた振る舞いの中に、或いはその口調の中に、とどまり続けるだろう。私はそこに、「らしさ」というものを教科書のようにして、マニュアルにして矯正を促す強い力、集団的な力に対する、個人の尊厳を辛うじて見るような思いがする。そのコンビニが全国に10000を超える店舗を持ち、その数をうまく管理するために生まれるマニュアル的対応の「らしさ」の束の網の目をすり抜けるものが確かにあって、それはそのコンビニの競争優位性を生むだけでなく、それを観察した外部の者たちを通して、他の領域へも広がっていくような、そういう力があるように思う。

   不景気というのは、好景気の場合であれば第一志望に進むことのできたはずの多くの人々を、やむなくして第二志望や第三志望の企業に進める力を持っている。そういうときには、Aに馴染みそうな特質を備えたaという人材が、期せずしてBというポジションに割り当てられる。そういう形で、社会の中で様々な人物が、「行きたかった場所」とは違う場所に配置されるという壮大なシャッフルが発生する。不景気という現象がもつこうした副作用は、それが不景気という良からぬ親から生まれた子どもであろうとも、よい効果をもたらす可能性を持っているのではないか。「らしさ」の壁を打ち破り、集団からの圧倒的な力に打ち勝つような、そういう力がシャッフルということの中には潜んでいる。そんなシャッフルの生み出した孫の1人たる、私の自宅の最寄り駅の近くのコンビニ店員は、どんな可能性を持っているのだろう。