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自転車

 人はどうして自転車でバランスをとって走ることができるのか、現代の科学ではそのメカニズムは未だにわかっていないというのを、以前に何かの本で読んだ。それはとても印象的だったから、今でも覚えている。自転車に補助輪があれば、前後についた車輪は、補助輪に支えられ、バランスをとって走ることができる。或いは、初めは誰かに後ろから支えてもらっていた私たちは、いつの間にか後ろで私を確かに支えていたはずの手が自転車から離れてしまって、いつの間にか自分の力で自転車に乗れる様になる。補助輪や支えてくれる誰かをなくしてしまっても、私たちは自転車で先へ先へと進んでいける。自分の力だけで、或いは自分のバランス感覚だけで、自分が自転車に乗れるということをもはや疑わないで、進んでいける。自転車に乗れる人は、自分の中に自律の感覚をつかんでいるのではないだろうか。自律ということの核を、私たちは自転車に乗ることを通して、自分の中に持つようになるのではないだろうか。

 子どもは反抗期になると、親や学校の先生に反抗し、それが終わると彼らの庇護下に再び置かれる状態に戻り、大学へ進んでやがて就職して、そうして自立したと考える。しかし社会に身を置いてみれば、自分は決して自律的な存在であるとは到底感じることはなく、また再び、親や先生がかつて占めていたその場所に、今度は会社が替わりに居座っただけではないかということを感じるようになる。そうして人は、自律から再び遠ざかる。見えた様な気がしたもの、手にした様な気がしたものは、実は勘違いだった様な気がしてくる。そこに別の存在が現れる。恋人であるとか、同僚であるとか、或いは友達、或いは上司というような、二律背反によって成り立つ幾つかの人間関係が前面にせり出してくる。ドラマや映画や音楽では恋愛によって、異性との関係によって、初めて私は生きていけるということになるし、日中の時間帯には同僚や上司との関係によって自分の居場所を確かめるようなことが少なくなく、夜ともなれば、久々に会った友人とのやりとりを通して、会社だけでない人生の他の側面に触れる。

 

 私は自動車を運転したことがないから、想像でしかものが言えないけれども、自律というのはどういうことかということを感覚的に掴み取るためには、自動車よりも自転車で走る方が、ずっといいみたいな気がしている。自動車が動くときには、エンジンという、自分ではないものの力に頼っている。エンジンが生み出す力は、人力でなく、馬力だ。それは馬を単位として測るのが都合がいいような、大きな力であって、何百馬力とか千何百馬力という大きさの力を、ドライバーは自分の力であるかの様に操って走る。それにひきかえ、自転車はまったく控えめ、もっと言えば非力であって、使われるのは一人力だけだ。ただ自分の力だけ、どれだけ鍛えられた脚力か、どれだけの体力か、肺活量か、そういう風に、自分自身の力の大きさが、走りにストレートに現れる。一切のごまかしはきかず、自分次第だ。自律というのはそういうことなのだろうと思う。自分の力がどれだけであるかということを、ひしひしと感じさせられる。自転車と自動車の違いというのは、それがどちらも英語圏で生まれたものだということを考えるならば、英語で考えた方が本質に近いものをつかめるだろうと思う。bicycleとautomobile。carは車であるから、自動車にだけ用いるのは不適切だ。古代エジプト人が、一つ約2トンとされる巨石を積み上げて王の墓を作るとき、丸太の上に平らな板を置き、その上に巨石を乗せて丸太を転がし、石を運んだという、その丸太もまた車、立派に役立つcarである。bicycle(自転車)は、自転車ではなく、厳密には二輪車だ。2という数字は安定からは遠い。二つのものが反対のものだったら、どちらが答えかいっこうに決まらない。だからヘーゲルは、時間軸の中で二つのものを統合する三番目を作る作用を「止揚」(アウフヘーベン)と呼んでケリをつけた。だからヘーゲルの体系では、対立する二つのものが、時間抜きに解決されることはない。時間の経過という条件をもってきて初めて、二つのものは三つ目のものに変わることで安定する。モンテスキューによれば、二つのものが対立するならば、3つのものを導入して、常に3つが並存するようにせよということになる。三権分立によって、司法と行政と立法の間でバランスが保たれる。中学の頃、技術家庭科の授業のときに、先生が椅子の足の話をしていたのを、なぜか覚えている。椅子というのは、脚が二本だけだったら立つことはできない。3本あって初めて安定するのだと。それはモンテスキュー的だと思う。中国では陰陽道において、或いは道教において、対立する二つのものを一つに溶け込ませるというやり方で2を1に書き換え、ケリをつけた。それはヘーゲルとは違って共時的であって、今この瞬間に、二つのものが一つに溶け合っているのだという風に考える。恋人や同僚や上司との関係によって自分を成り立たせるという考え方は、この意味で道教的だ。

 それでは二輪車の場合、2という不安定はどのようにして安定を得るかといえば、それは3番目の「私」の力である。二輪車は、スタンドがなければ、或いは立てかけるのに丁度いい壁がなかったら、自分だけでは立ってはいられない。二輪車自体は、自律できない。しかしそこに私が現れると、私の力によって、2つのものが一つのものと合わさって、3つのものになることで自律して、独立した一つの存在になる。そこで初めて、二輪車はずうっと前や右や左に進んでいける自由を獲得する。重要なのは、私たち人間は、2本の足だけでも安定することができるということだ。かつて私たちの遠い先祖のサルたちが4本足で生活していた頃とは違って、私たちは4から2に減ってもなお、しっかりと立つことができている。2でも安定を得る私たちが、2では安定できない存在である二輪車と出会って、彼の3つめの杖となり、彼を支えるそのときに、私たちは単なる杖に過ぎないのではなくて、杖であることによって、自律を獲得する。

 いつか科学が、今よりもずっとずっと前へ進んで、自転車でバランスをとって走ることができるそのメカニズムを解明したならば、そのときついに人間は、自律とはどういうことを言うのかについて、今よりももっとちゃんとわかるようになるのだろうか。今はまだ、人間にとっては感覚でしかわからない自律ということについて、しゃんとした筋を通して説明がつけられるようになるんだろうか。

 今週はわりと天気が安定している。昨日は電車通勤だったけれども、明日からはまた、自転車で走って通勤しようと思う。