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揺動とざわめき

 ひとたび認めてしまえば、もう二度と認める前までの自分には戻れなくなってしまうような、そういうものがある。ひとたび口に出して言ってしまえば、もうどうしたって「なかったこと」にはできなくなってしまうような、そういうものがある。言葉を知らなかったり、或いは明晰に考えることができなかった頃には、そういうものはまだどんな図式にも収まることはなく、どんな言葉のラベルを貼られることもなく、何らかの形となって私の外へ現れることなく、中で渦巻き続けただろう。そういう時期を、ある人は「子どもの頃」とか「青春時代」とか「若かった頃」というだろう。そしてそういう時期に、心の中で持て余した「それ」を、例えば「可能性」と言ってみたりするだろう。

 私は、社会の中で特定の職業に就き、自分はこういう人間であるということを確定するイニシエーションを未だに経験しないままに、どんな自分がいいのだろうと次々に本だけは読み続けながら、そして考え続けながら、自分を宥めすかすような小利口な理屈を時には用いながら、根本的には、そんなことは下らないという感覚が心の底に根を張り、強く引かれる何かについて次々と考えを膨らませていく、或いは深めていく、そういうことを楽しみ続けている。一人のフリーターとして。日本人にとって、外国人の顔がみな同じに見えるのとちょうど同じ様に、社会の中で一人前に働いている人々から見たフリーターという存在は、みな似たり寄ったりの自堕落な人間として一括りにされているものなのだろうか。馴染みがないもの、自分とは決定的に違うものというのは、そこにいくら個別性があるといえど、そういう個別性は無意識のうちにローラーで均されてしまって、平板な一塊にされてしまう。

 小・中学性の頃、一卵性双生児の友人がいた。双子のどちらともしゃべっていた。そのうち口を聞くことがなくなったけれども、それでも時々、私の心の中に浮かんでくる。その双子は、外見が似ているために、一方が他方と間違えられることがあった。双子のそれぞれにとってみれば、自分は自分であって、決定的に個別な人間であると感じて生きているだろう。だから一緒にされることや、自分でない方と間違われることに、苛立ちを感じもするだろう。

 

よく見ない者たちは、自分が見ているものをローラーで均してしまうのだ。

 

 それは、「もっとそれぞれをよく見るべきじゃないか」とか「私の個別性をちゃんと認めてほしい」という様なナイーブな要求などではなくて、水を入れた電気ポットのスイッチを入れれば、やがてお湯が沸くのと同じ類の、「こうすればこうなる」という、大げさな言葉で言えば「摂理」だ。そんな摂理の内側で、何者にもならないままでいる私は、「何者にもならない」という属性によってローラーで均されてしまう。消費期限が迫っている。

 日本は先進国であるというのは、「先進国(※ただし願望)」という風に表記するならば妥当であるとしても、何の但し書きもなくシンプルに「先進国」と言い切ってしまうことはできない。百万単位のフリーターを抱えるくらいのゆとりがあるという皮肉な意味では先進国ということはできても、どうすればいいのかわからない人間と、どうすればいいのかわからないフリーターにはなるわけにいかないというくらいの理由で就職だけはするという人々をかなりの規模で抱えているという意味では、「先を進んでいる」とは言いたくない…。

 と、そんな風にしてあれこれ思いながら、色々なものの中からどれか一つを選び出して、それに決めてしまったら、まともに走り続けるためには路線を変更することができなくなるような、そういう線路の上を走ることを拒む私は、言葉以前の何か、或いは絵になる前のイメージ、曲になる前の感情という様なものを内側に抱えたまま、それにどんな形を与えようかと思案し続けている。

 それは、ひとたび形を与えてしまえば、もう形のなかった頃には戻れないという決定的な性質を抱えているけれども、形のなかったものに形を与えること、ぼんやりとしていたものにはっきりした輪郭と明暗を与えること、散らかったものを全て同じルールによって整頓しきること、そういうことにこだわる私は、どうにかして区切りをつけようと思う。

 洗濯物をグラデーションになる様に並べて干すように、机の上のものを全て縦か横の向きに揃えて配置するように、私はフリーターをやめる日が訪れるのだろうか。