ピッキング

 綺麗な女性が現れる。そこでその綺麗さに惹かれて、惹かれて、ただ惹かれ続けてそれを褒め称えるのではなくて、その綺麗な人は今、どんなことを考えているのだろうと、その内面に踏み込んで行きたくなるときがやがてやってくる。マザー・テレサはかつて、愛情の反対は憎悪でなく無関心であると言った。それでは逆に、愛情でなく無関心の側から出発したならば、愛情は関心と一致するのだろうか。私はそんな風にして、目の前でコーヒーを飲んでいる、或いは何か喋ったり、抹茶ワッフルを頬張ったり、或いは横に座って映画を見続けているその人の、ただその外側に現れた美しさだけでなく、その美しさの奥に何が潜んでいるのかということを知ろうとして、インターホンを鳴らし、<家>の住人が戸を開ける。そして私は、中へ入って良いかと尋ねる。インターホンを押す前に、色々なやりとりは既になされた。私は十分な下準備をしたと思い誤って、もはや今、その<家>に入ることができるのではないかと思って尋ねる。しかし住人はそれを断る。私にはその<家>に入る資格はない。その立派な<家>は、綺麗な庭と、いい色合いの外壁と、輪郭をじっくり目で辿ってため息の出そうな建築様式とを湛えている。私は、「友達」ではその<家>には入れないのだと、それ以上の関係でなければその<家>の中を見ることができないのだと、そう思ったのだ。だから私は、<家>に上がることを拒まれると、もはや「友達」という関係として続けていくこと、別の言い方をすれば100を目指した数秒前、或いは数分前から一転し、30や40というところに留まってぬるま湯の様に戯れて過ごすことをひどく嫌悪し、「ゼロ」を取って完全に連絡を断ち切る。少なくとも、形式的には。あるいは外向きには。しかしそうして、外側では断ち切ったものは、却って私の内側では断ち切られず、どんどんどんどん膨らんでゆく。私の内側には、やはり<家>の美しさと、その人の美しさと、その奥に並んでいる数々の想像上の家具などが、身の回りの色々な物を引き金にして、フラッシュバックする。ただその<家>の表札に刻まれた漢字の文字列の、ほんの1字だけを、何の脈絡も持たない場所で目にしただけでも、すぐに<家>と想像上の室内とが、心の中に再現される。引き金は、再現される数に比例でもするかのように、増えていく。以前は目に止まることさえなかったものが、私の取り留めのない連想によって、ある時から引き金の仲間入りを果たし、引き金の仲間たちは、もはや一つの国を作ることさえできそうな程に増殖してしまった。もしかすると私は、住人に断られたその後で、外側で<家>を絶ち切ったつもりが、それを心の中に作り上げる材料を、或いは引き金を、あちこちに散らかしてしまっただけであるのかもしれない。散らかっていてもやはり、それは確かに材料なのであって、私はその材料の一つでもあれば、瞬時に全体を構成してしまうのだ。

 私は中学生だった頃、ピッキングに興味を持ったことがあった。家の鍵というのは、その家に住む者だけが持つものであって、鍵を持たない他の者は、家の中にいる者の同意なしに中へ入ることはできない。家についてのそういう常識を覆す行為というのが「ピッキング」ということの意味ではないか。もちろんこんなことは、当時ははっきりと意識してはいなかったが、当時の自分の頭の中に、まだ言語化はされないままに回り続けていた「それ」を今の自分が説明するとしたら、多分こういうことだろうと思われる。住人でない者が家に入るとしたら、もちろん無理やりドアをこじ開けるとか、窓ガラスを割って入るとか、そういう方法もなくはないが、私はそういう方法を好まなかった。また鍵穴を壊す様なこともしたくなかった。ピッキングに興味をもっておきながらこういうのもおかしいかもしれないが、私は鍵というものに対して最低限の敬意を払っていた。ドアも鍵穴の中も、何も傷つけずに鍵を開ける、それも鍵は使わずに。だからこそピッキングという方法に惹かれたのだと思う。

 しかし、家の場合はそれでも開けられるかもしれないが、<家>の場合はそうもいかない。私は<家>のピッキングが下手であるらしい。誰かの<家>の鍵を開けようとあの手この手を考え、言葉を使ったり行動で示したり、いろいろやってみても、それで鍵の代わりになるということはないし、最後の最後に、住人に中から開けてもらって入れてもらおうとしても、それも断られてしまう。「告白」という行為は、インターホンを押した後で、中へ入って良いかと確認を取ることだ。インターホンを押すまでの間に、人によって実に様々な下準備がなされる。下準備にとても時間をかける人間もいれば、出会ってすぐに下準備らしい下準備もないような感じで中へ通される者もいる。先日、雪で終電を逃して困った男性数人が、歩いて帰ったとか外で一夜を過ごしたとかという話をしていて、そのうちの一人が初めて出会った女性の家に泊めてもらったと言うと、会話はそこで終わったという様な趣旨のツイートを見かけた。これが実話かどうかはわからないけれども、少なくとも私にとって、そういうことは実際にありうることだと思われた。

 私はそれでも、ピッキングの可能性に期待すべきなのだろうか。本人が同意していないのに、勝手に<家>の中の様子を知ることができてしまうピッキングというのは、人間観察や精神分析の象徴的な形式でもある。

 そうか、私は、ピッキングに興味を抱く様な人間であるから、つまり相手の同意を得ていないのにその者の<家>へ入り、中の様子を見てしまうから、そんな卑怯なことをしているから、結局はインターホンを鳴らして直接尋ねるときが来た時に、相手がその卑怯さに自覚的に嫌悪を抱いていないとしても、断れてしまう、そういうことなのかもしれない。どんな形状の鍵だって、鍵で開くということは必ず、ピッキングで開けられるはずだ、要はやり方次第というだけのことだ、そんな風に捉えていた私は、そんな卑怯なことをしないで堂々と<家>の中に入っていく、他の多くの人々から決定的に取り残されてしまった様な気分で、鍵を使って自分の家に入り、そうしてソファの上で惨めな気分になるのだ。


<家>=相手