パイの実

 私は小さい頃から、なぜかパイの実が嫌いだった。彼女は好きらしいので、この前もコンビニでパイの実を買って二人で食べたりもしたのだが、やっぱりどこか馴染めないというか、受け入れ難いものを感じてしまった。小さい頃は食べることさえ拒むくらいであったから、それに比べればまだ丸くなったのかもしれないが、それでもまだ、幼い頃の言葉にできない直観は、私の中に辛うじて残っているようだ。

 今日、新しい米を買いに自宅近くのスーパーへ行き、「あきたこまち」や「ゆめぴりか」と迷ったが、始めて山形県産の「つや姫」を買った。どうしてこれにしたのかは、敢えてここには書かない。おそらくこれが影響しているだろうということは、私の中でははっきりしている。

 家に戻って炒飯を作るとき、まだ一合分ほど残っていたあきたこまちをどうしようかと考えたが、それはそれで取っておいて、つや姫とは混ぜないで使おうということをふと思った。炒飯と合わせてコンソメスープも作り、スーパーで買ってきたコロッケをレンジで温めて、彼女と二人で食べた。私は食べながらふと気が付いた。私はパイの実が嫌いなのは、米を混ぜることに絶対的な嫌悪感を感じることと通じているのではないか、と。つまり、複数のものを同時に味わうということに対して、私はどうしても抵抗があって、米ならば常に一種類だけを味わいたく、数多くの層が縦に積み重なったパイの実の場合もまた、その層の一つ一つを味わいたいと思い、実際にはそんな味わい方を許さないパイの実に対して、私は直観的に距離を取ってしまうのではないか。

 自分の中に眠っている、こうした素朴な感覚というものが、私の日常生活の中のどういうところで目を覚まして顔を覗かせているのか、確かめることは容易でない。けれどもここで、一つそれらしいと思える例を挙げるとすれば、私は小さい頃から、大人数で話をすることが嫌いだ。それは割と当初から理由を自覚しているところがあって、大人数では一人一人の意見を丁寧に辿りながら話を進めることが難しくなってしまうからだ。それは未だにそうで、私は誰かと会うとき、ほぼ必ず一対一で会う。それは同時に複数の人間で集まろうとすると都合がつきにくいという事情も一方では確かにあるけれども、それは私の中ではあまり問題にならず、どちらかといえば、会う相手とちゃんと話せるかどうか、対話ができるかどうか、そういうことが私の頭の中を占めており、その結果一対一ということになってしまう。

 それでは、同時に複数のものを味わうということ、或いは同時に複数のものが調和するということを楽しむということを、私は全般的に拒絶しているかというと、そういうわけでもない。炒飯と一緒に作ったコンソメスープは、300mlの水に対してキャベツを4分の1玉使っただけで、他の具材は一切なかった。キャベツの柔らかさはちょうどよかったのだが、私はそのコンソメスープに物足りなさを感じた。300mlの水でスープを作っていくときには、具材が一つだけでは食べているうちに飽きてくる。だから例えばウィンナーや人参の様な他の食材も入れて、食感や風味にバリエーションをもたせたくなる。こんな風に書くと、なんだか料理にこだわっていて一丁前に料理をしている人間であるかの様に思われるかもしれないが、そんなことはなく、ちゃんと自分の手で料理を作ったのは今日が久しぶりだった。どうも「考える」ということだけが実践を伴わずにどんどん先走る私のこの性向は、料理に関してもそうであるらしい。それが良いことなのかどうかは、まだ判断がつかない。実践できなければ社会の中に居場所は確保できないようなところがある一方で、実践の方を強調する態度には違和感を感じるところもある。国会前のデモなどを見ていると、行動主義的な価値観への違和感が私の中に湧いてくるのを感じる。労働というのは、自分のうちにあったものを自分の外へ出すことであって、そうして外へ出されたものが、私についての評価を左右する。私の中にいつまでも留まり続けるものは、どうしても評価されようがないし、また外へ出すとしても、出し方がまずければ、それはやはり社会との接続を絶たれたまま、大地を失った植物の様にやがては枯れていってしまう。

 

 パイの実との距離感を探ろう。