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コンビニ店員と軍人

27歳 内省 思想 文学 日常 東京 歴史

 年明け最初の外出は、開いているのがそこぐらいということもあって、自宅の近くのコンビニだった。普段はアルバイトから帰ってくる深夜に利用することが多く、平日の昼間に利用するのはどちらかというと珍しい。だからその時間帯にシフトが入っている店員は把握していない。

 私はティッシュや食パンなど、いくつかの物をカゴへ入れ、カウンターに置いた。店員は実にうまくそれらを袋に詰めていった。空間把握能力に優れた人物なのか、物の詰め方に無駄がない。バランスを崩す様な下手な詰め方をする人が少なくない中で、その店員の実に手馴れた無駄のない仕事ぶりは私の興味を引いた。弁当も買ったので、それは温めてもらうよう頼んでいたが、その温めの間に他の商品は流れ作業の様に無駄のない一連の動きによって袋詰めされ、温めが終わると、すぐにそれが別の袋に詰められた。私は二つの袋を受け取って店を出た。

 無駄のない動きというものを見ていると、私はふと軍人を連想した。軍人の世界では、無駄のない動きによって、極めて高度に統率された集団行動が可能になる。それは単に身体の動きに留まらず、複数の成員による行動という形態での動きにおいても染み透った無駄のなさなのであって、その無駄のなさは例えば「上官の命令は絶対」という原則によっても支えられている。私は店員の無駄のない動き、ある意味では軍人的とも言える様なその動きに感心していたが、その同じ無駄のない動きが、かつて戦争へ向かう方向をとったこともある。文人たちが正統的な手続きに沿って動こうとしている間に、よく統率された動きによってあっという間に主導権を握って、どんどん物事を決定し、実行していく、軍人たち。無駄のない動きというのは、一方では感心させられるコンビニ店員の動きの中に、他方でファシズムのような姿となって現れることもある。それは「目的次第」という意味では、技術や道具とも通ずるところがあるようにも思われる。コンビニ店員とファシズムとを分ける分岐点は、一体どこにあるのだろう。

 私自身はといえば、普段の振る舞いにおいて、無駄のない動きをそれなりに意識しながら体を使っているところがある。そういう意味では軍人的な感性にも通じている。誰の心の中にも、無駄のない動きを求めるというちょっとした欲望を通して、軍人的な感性が潜んでいるのかもしれない。逆に言えば、もしかしたら軍人とは、誰の心の中にもある、統率された振る舞いや行動に対する志向を結晶化させた様な存在なのかもしれない。そういえば私の部屋は、大体いつも片付いている。この整頓を求める感性、片付いていることについての執着心というものが、私自身はちっとも望んでやしない戦争に、私を導いていく可能性を秘めているのかもしれないなどという、そういういわく言いがたい恐怖を覚えたりもした。分岐点が見えないこととも関係している。

 

 もしかしたら分かれ道などないのかもしれない。一本道の中に、コンビニ店員とファシズムとが同居しているという方が真実なのではないか、人間の本性には、常にそういう両面が同居しながら道の上を歩いているというところがあるのではないか、そういう気分をもった。