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みかん

26歳 内省 思想 学問 東京 日常 文学 ネットワーク科学 以前のこと 科学

 この記事は、26歳の自分として書く、最後の文章になるかもしれない。少なくともこの「はてなブログ」で書く文章としては。もうすぐ、私は小学校1年生の時の担任の先生と同じ、27歳になる。私は先生と、ある何らかの意味で同じようにものを考える、そういう人間になりゆくのかもしれない。

 

 

 みかんについて考えていると、あることに気が付いた。頭の中でみかんを思い浮かべて、そうしてそれをぎゅっと潰すと、そこから果汁が滴ってくる。その果汁を、一滴残らず集めておいて、搾り取られた後の塊の方へかける。みかんを作っているものの、なんにも失われてはいない。そのとき、それはみかんと呼べるだろうか。おそらく多くの人間は、もはやそれを「みかん」とは呼ばないのではないか。果汁が搾り取られる前の塊と、その後の塊とでは、何かが決定的に違っている。そしてそれは、一度搾られれば、もう取り返しがつかない。人は、その取り返しのつかなさを無意識のうちに掴み取って、みかんがもはやみかんでなくなってしまったと、そういう風に考える。

 みかんジュースは、みかんの果汁(ジュース)だ。それは「みかん」とは違う。違うというのは、みかんの中の、果汁でない部分が失われてしまったからなのではないか。しかしそれは、厳密な答えではない。みかんというのは、単に果汁と果汁でない部分の二つを足し合わせたものではない。それ以上のものだ。みかんをみかんたらしめているものは、単なる果肉や果汁や、あるいは皮やへたではなくて、そういうものがある一定の仕方で関係し合っているときに限って、みかんと呼ぶことができるものであって、そういう風に関係し合っていることで、みかんはそこに存在していると言うことができる。

 それでは、みかんというのは、ある種の関係だろうか。それもたぶん違うのだろうと思う。おそらくは、この世の中に、みかんがみかんとして存在することができる、そのある種の関係と、まったく同じような仕方で何かが関係し合って成り立っているものが、みかんの他にあるに違いない。それは単に「柑橘類」と呼ばれるみかんの仲間たちを指しているのではなくて、もっと違ったものだ。もしそういうものがあるとしたら、それとみかんとをどうやって区別すればいいか。関係だけではみかんを捉えることができない。みかんの果肉や果汁や、あるいは橙色をした皮や緑色のへたなど、そういう実体的なものもまた、みかんをみかんとして捉えるために欠かすことができないものだ。だから、私は実体論と関係論という素朴な二分法を信用しない。一方が真実であって、他方は偽であると考えると、みかんを捉えることができない。

 ネットワーク科学という分野があって、それは言い換えれば関係論だ。人間同士の関係や、コンピュータ同士の関係や、アリ同士の関係など、そういう関係のあり方を分析することを通して、社会やインターネットや、あるいはアリのコロニーの実態というものを捉えようとする。そこでは背後にグラフ理論が控えているのであって、グラフ理論の材料には点と線しかない。そして点のところに、人間やコンピュータや、アリなんかを代入して考える。代入されるものは、同質的なものだ。どれも「代入できる何か」という意味で同質的なものだ。実体の個別性は問わない。みかんの果汁は、ぶどうの果汁と変わらない。どちらも同じ「果汁」なのだ。問題なのは果汁と他の要素との関係の方であって、関係を調べていけば、その構造というものをしっかりと捉えることができれば、十分に説明がつく。ネットワーク科学ではそういう風に考える。だから、ネットワーク科学ではみかんを説明できないだろうと私は思う。せいぜい関係までだ。みかんの皮すら説明できない。

 みかんをちゃんと説明できるようになりたい。みかん一つをきちんと説明することができるようになれば、私はそこから色々なものが説明できるようになるのではないかと思っている。たとえば小さい頃から私の好きな「迷路」について、あるいは今日来ているチェスターコートについて、私はようやく説明することができるようになるかもしれない。

 私は保育園や小学校、あるいは中学校にいたときには、よく絵を描いていた。絵といっても模写であって、目の前にないものを描くことはなかった。私の当時の友人の中には、自分の想像だけで色々な絵を描くことができるような、絵の達者なものもいくらかあったけれども、私はそういう描き方を好まなかった。私はいつも、そのときそのときで私の目に映るものを、手を動かして描いていくことにこだわった。私がこの目で見ていないものを描くのは、迷路を描くときだ。それは、描き慣れたものをブラインドタッチのように描くこととは違って、どこにもないものを描くことだ。私は、すでに存在するどの迷路とも違った迷路しか描かない。だからこそ、迷路は迷路として楽しいのであって、私自身も含めて、すでに誰かが描き終えた迷路を写すだけだったら、迷路を描くということの中にある独特の楽しみは失われてしまうだろう。恐らくは、迷路というのは、みかんとは違った仕方でしか説明できないだろうと私は考えている。少なくとも、実体的なものと関係的なものの二つを、同時に捉えるというしかたでは。だから私は、みかんとは別個に、迷路を説明することができるようになれば、二つの異質なものを説明出来るようになるということに、なるだろう。それによって、私はずいぶん視界が開けてくるだろう。みかんしか説明できないときの私とは違ったしかたで存在する私というものが、そこには存在するということになるだろう。楽しみだ。

 

20151220日(日)、吉祥寺の駅の改札近くのスターバックスの窓際の席にて)