子どもと地震と日本

湊かなえの『告白』*1という作品を読んでいる。第2章まできて、学校が舞台になっていることがきっかけで、私の中で学校とか子どもについての見方が変わってきた。それについて考えたことを少し書こうと思う。そしてそれは、少し前に地震について考えていたことともつながるように思われたので、途中で地震の話ともつなげて書いていくつもりでいる。

学校や子どもをどう捉えるか

 学校を舞台にした作品、或いは生徒を中心に展開される作品というものに、私はここ数年、関心を持ちにくくなっていた。それは私が、中高生や大学生を終え、学校に通わなくなったという境遇の変化が背景にあるのだろう。しかし、ここへきてその気分が大きく変わってきた。学校という空間の中で起こることについて、もう一度考え直す必要があるのではないかという風に考えるようになった。なぜそれが必要かといわれれば、それは次のようになる。

 学校という空間で過ごす子どもたちというのは、まだ他人と関わっていくときに十分に理性的な態度で臨むということができない。本能や感情をむき出しにして他人と接している。軽はずみな行動をとって大人に咎められることも多い。それでは大人は違うのかといえば、私は大人もある意味では同じだと考える。大人という存在は、子どもがむき出しにしている色々なものを失くした人々なのではなく、それを抑えているに過ぎない。それを抑え込んで、表面上はうまくやっていくことに長けた人間たちを、「大人」と呼んでいるに過ぎない。

 それでは、抑え込まれた色々なものはどうなるかといえば、決して消えてしまうということはなくて、何かの拍子に一気に表に出てくることがある。それは大抵、事件という形で現れる。社会で様々な事件を起こすのは、感情や本能がむき出しの子どもたちだけではない。むしろ大人の方が、多くの深刻な事件を引き起こしている。そのことの意味を改めて考えてみると、大人が子どもから学ぶべきことというのがたくさんあるのではないかと思うようになったのだ。子どもが大人から学ぶのと逆に、大人が子どもから自分たちの真の姿について学びとるために、「学校」というところで起こっていることに目を向ける意義がある。学校は、単に子どもたちの世界の縮図なのではなく、人間一般の縮図、或いは社会の縮図として捉えられるべき空間なのではないか。こうした考えが元になって、私は学校や子どもが中心になった作品というものに、以前に自分がそこに所属していた時分とは違ったモチーフで、引き寄せられるようになった。

 何か、自分の根本的な姿勢というものを問われる問題にぶつかった時、大人というのは、自分を納得させるためのそれなりにうまい理屈を持っているものだ。或いはそれを持たない時には、お酒や夜遊びなども含む、いろいろな仕方でガス抜きをしたり、発散したりする。それは職場ではない。

 子どもにとっての職場は、学校だ。そこから逃れる子どももいるが、大抵は逃れることができなくて、学校という職場の中で問題を起こすことになる。大人は職場での不満、怒り、悲しみなどを上手く子どもよりも上手く処理しているように見える。しかし実際はそうでもない。大人は職場でそれを見せないだけで、家や居酒屋、あるいはもっと別の場で、自分にのしかかる重圧を処理しているにすぎない。いくら理性があっても、それらを完全に消し去ってしまうほどには至らない。そうして見たくないものや考えたくないこと、或いは直視したり真っ当に考えてもどうにもならないことに対して、それらを透明にしてしまう。だから一見すれば、そういう問題が消えてしまったもの、あるいは無視しても構わないもの、あるいは少なくとも自分を脅かさないものになっていく。

 それに対して、子どもというのは、まだ大人のような対処の仕方を知らない。だから心に色々なものがのしかかってきたり、誘惑に駆られたり、舞い上がったりすると、簡単にタガを外してしまう。殺人までの距離も短い。それではこの点に関して、大人の方が洗練されていると言えるだろうか。私にはそうは思えない。それは、両者とも問題が起こった後でそれにどう向き合うかという風に考える点において、差異があるに過ぎず、大人の方がそれを事前に防いだり、あるいはそういう問題が起こることを根本から解決することに優れているとは、言えないからだ。それは、医者が病気にかかった後でなければ治療の施しようがないのと同様に、事前に防ぐということが問題にされない。 

 歪みは、子どもでも大人でも溜まっていくもので、子どもの方がそれが表に出るのが早いという違いがあるに過ぎない。大人であっても、歪みが溜まり続ければ、いつかはそれが解放されて、表に出てくる。ここまで書いて、私が最近改めて意識するようになったテーマの一つである、地震の思想というものへ話を進めていきたい。

地震と子ども

   3.11の後、国内では原発東京電力、政府の対応などに議論が集中したけれども、地震そのもの」について、もう一度考え直したいと思うようになった。もともと地震の多い国であるという条件の中から、「ひずみが解放されること」についての思想を深めていくという課題を引き受けてはどうだろうかと思うようになったのだ。数研出版から出ている『もういちど読む数研の高校地学』*2という本が手元にある。ここから地震に関する章の説明を少し引いてみる。

地震は、地殻やマントルに蓄積したひずみが一瞬で解放されることによって発生する。地震が起こると、地震波が地球全体に伝わっていく。この地震波から、揺れの大きさをはかるものさしである震度、地震の開始地点である震源地震の規模をはかるものさしであるマグニチュードが求められる。また、地下にどのような力が加わっているのかも知ることができる。(中略)大地震が起こる所は、地下にひずみが蓄えられている場所に限られる。

(第2地震と火山 p.56

 

 ひずみが溜まっていくと、いずれそれが解放されて、大きな力を持って人間を襲う。それはまるで、耐え難きを耐え、忍びがたきを忍び続けた個人が、あるときプツンと糸が切れるように、或いは堰を切ったように、内側にたまっていた怒りを解放することと、とても似ているように私には思われた。

 こうした地震の捉え方、或いは少し大げさな言い方をすれば地震観」というのは、子どもと大人について上で述べたことに対応させていえば、子ども的であるよりもむしろ、大人的な現象である。これを裏返していえば、子どもというのは、地震以上に地震らしい存在であるという言い方もできる。つまり、大人に比べて遥かに容易に歪みが解放されやすい存在というのが子どもである。

 地震にどう向き合うかということについて考えることを通して、私たちは人間同士の関係のあり方を見直すことができるのではないか。そしてそういう主題について考えていくときに、地震以上に地震らしい性質を持った子どもたちが集まる空間として学校というものを捉えるということが、意義を持ってくるのではないか。

*1:

告白 (双葉文庫) (双葉文庫 み 21-1)

告白 (双葉文庫) (双葉文庫 み 21-1)

 

 

*2:

もういちど読む数研の高校地学

もういちど読む数研の高校地学