人間にとっての未来、コンピュータにとっての未来

 彼女がiPhoneのカレンダーアプリで西暦2015年からずっとスクロールして、西暦3000年のカレンダーをスクリーンショットしたものを見せてきた。そこで私は、要らぬ対抗意識のようなものに突き動かされるようにして、そのずっと先まで、西暦10000年までスクロールした。西暦10000年の自分の誕生日は、木曜日だった。その更に先、20000年までスクロールしても、やっぱりカレンダーはそこに表示されていた。

 コンピュータにとっては、カレンダーの日付、曜日の存在は、人間にとってのそれらとは、もちろん異なる。単に数字の操作の対象としてしか存在していない。4年に一回2月に29日を加えるとか、曜日が毎年ずれていくというような操作の対象としての数字の羅列、或いはツェラーの公式の対象としてしか存在していないのだろう。

 西暦10000年は、人間にとっては、そもそも自分たちが存在しているのかどうかすらわからない未来であって、カレンダーでは当然のように自分や友人の誕生日が記載されていて、当然のように私や友人の歳は数千歳になっている。

 私が10000年について考えるときの不安や不透明さ、或いは期待などは、コンピュータにとってはなんでもない。それは単にコンピュータが冷たい存在であるとか、情緒が欠けているというようなナイーブな話ではなくて、単に数字の操作の対象という風に限定してカレンダーを捉え直すという見方は、それはそれである種の魅力を持っているように思える。その身も蓋もなさ、ある種の荒唐無稽さも含めて。

 ちなみに、未来についてはコンピュータにとってはどうやら無限らしいが、過去についてはそうではないらしい。カレンダーのアプリで過去に遡っていくと、途中から西暦の記載が消えてしまうのだ。コンピュータにとっては過去は余計なものなのかもしれない。笑