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自覚されていないものと自覚されているものの広がり

26歳 思想 日常 動画 内省 以前のこと 文学

 こんな動画を見た。もうすでに3回見ている。なんといっても漱石の作品を丁寧に読み解いていくことによって話があっちこっちへつながり、内容がどんどん膨らんでいくのが面白い。専門分野にとらわれずに関連する他の領域の議論もどんどん取り込みながら自説を展開していくことを、最近では「分野横断的」とか「学際的」(interdesciplinary)と言ったりもするが、この人はそれを地でいっている。文学を論じるのに、いわゆる文学の領域の内側にとどまらず、社会や科学、絵画や芸術など、「この作品のこれを理解するためにはこの分野の議論を踏まえなければならない」と判断すれば、たとえそれが全くなじみのない分野であろうと向き合って格闘する。こういう風にものを学ぶということが何かを本当に学ぶということなんだろうとしみじみ思わされる。


高山宏 だれも知らない漱石 - YouTube

 この動画を見ていて高山さんの批評の核をなしているものについて考えてみた。高山さんの仕事の独創性は、批評する作品の中に使われている些細な言葉にこだわることによって成り立っている。「ピクチャレスク」(picturesque)*1という言葉ひとつから、当時のヨーロッパ美術や科学にまで話が繋がっていく。ピクチャレスクを生む背景には、ニュートン『光学』*2があったことを突き止める。これは現在では科学者、それも物好きな科学者くらいしか読まないような作品になってしまったが、意外なことに出版当時は大ヒットし、詩人によく読まれていたという事実に至るニュートンの『光学』によって、光のプリズムが七色に分けられることが説明される。「七色」というと、先日書いた虹の色は何色かということを扱った記事*3を思い出す。日本語では虹は七色だが、ニュートンの指摘した色の数と重なる。果たしてこれは偶然だろうか。一方で英語では六色になっているというズレが生じている。私はここに何か面白いものが潜んでいそうな気配を感じる。

 

 高山さんの読解や解釈、或いはその結晶としての批評は、「作家が何を知っていたか」「当時の時代背景はどういうもので、それを読み解くためには越境的に、或いは脱領域的に色々なことを知らなければならない」という問題意識から発している。例えば冒頭に紹介した動画と絡めていえば、漱石草枕*4で描かれている険峻な山は、漱石が留学していた当時のイギリスが、フランスに美術の領域で抱いていた対抗意識のようなものに影響を受けているということが指摘される。当時のフランス絵画では優美な山を中心に描いていた。つまり樹が沢山生えていて、斜面がなだらかで、人が足を踏み入れやすい、日本で言えば高尾山のような優しい山である。フランスがそんな山を描いていることを知ったイギリスは、いわば天邪鬼的に、厳しい山を描こうとする。滝があって、岩肌が露出していて樹が少なく、人が容易に近づきがたい、踏破しがたい厳しい山を積極的に描いていく。そういうトレンドのあるイギリスに身を置いた漱石が、そのイギリス式の山の描写法を自らの小説に応用したのが帰国後に書かれた『草枕』であったのだと。

可能性の作家と自覚されぬもの

 高山さんのこうした作品の解釈には、埴谷雄高梶井基次郎を評するときの姿勢とは異なるものがある。埴谷が梶井について語るとき、梶井自身は宇宙論について知らなかったにも関わらず、その作品は宇宙論に通じるように書かれているという点を指摘する。ホーキングが理論的に示した宇宙観を、それより先に梶井が文学によって示していると。それが埴谷の考える作家の天才性の定義でもある。

 

 作家自身には自覚されていないもの、或いは意識されていないもの、念頭に置かれていないものを作品の中から引き出すような批評というのは、これまで受け継がれきた1つの批評類型であるけれども、 高山さんの批評はこれとは異なる。それは異なるということによって獲得された、独特の豊穣性をもっていると同時に、作品から引き出せることもある範囲に止まらざるを得ない。それは原理的な問題だ。もちろんその範囲内であっても、批評によって作品世界を広げていくことはできる。漱石を読み込むときに、ピクチャレスクやアンドレア・デル・サルトや絵画史などを参照していくという方法は、それはそれで確実に作品世界を豊穣なものにするだろう。しかし制約のギリギリまで広げられた後には、その制約を破る批評を、高山さんは提出することができるだろうか。

 

 この点について即断はできない。高山さんの過去の仕事を見ていくことでしか正当な評価は下せないのだろう。夢十夜を十夜で』*5『近代文化史入門』*6以外の著作にも当たらなければならない。私自身、これから楽しみにしていることである。

ドラえもんを批評に用いること 

 昨日の昼、元彼女とスタバで話したことについて、その中でいくつか出てきたテーマのうちの一つを取り出し、すでに一本の記事*7を書いた。この記事ではそれとはまた別の主題、「批評」ということを、ここまでの高山宏という人間の文芸批評に関する論の展開と絡めて書いていこうと思う。 

 批評という行為について、例えばドラえもんを考えてみる。道具にスポットを当て、作品の中でのび太が道具とどの様に関わり、どの様に影響を受けているだろうかという問題を設定してみる。のび太は何か困ったことが起こるとドラえもんにすがる。そこでドラえもんは、のび太の抱える問題を解決するような道具を四次元ポケットから取り出す。のび太はそんな道具を使うことに慣れてくるからか、次第に道具に使われるようになっていく。つまりその道具が、のび太が最初に考えていたのとは違う使い方もできるということにのび太が気づくと、そのポテンシャルが持つ誘惑に心が簡単に負けてしまい、悪用するようになってしまう。そしてジャイアンスネ夫を必要以上に追い詰めたりするようになるのだ。そしてドラえもんに諌められてもまだ止まらないことがあり、しずかちゃんに諌められてようやく我に返ったりする。

 のび太と道具との関わりを描くこうした描写の中から、道具と人間の関係についての何らかの教訓めいたものを引き出し、それを転用することは可能だろうか。何に?私たちの周りで展開される問題、例えば最近ではイスラム国によるテロ活動について。

 「テロ」という手段を得た中東の若者たちの心情を語ろうとする記事を、先日渋谷のQFRONTビルの上階のブックカフェ、SHELF67で偶然発見した。今週発売されたニューズウィークの日本版*8である。ウェブ版では見ることができないが、テロリストを生み出す温床というのはどういうものかという点に注目するならば、中東に限らずベルギーも焦点になっている。記事がいくつか上がっている。

www.newsweekjapan.jp

www.newsweekjapan.jp

 個人と技術の関係という観点で「ドラえもん」という作品を批評的に読解し、イスラム国のメンバーがどのように生まれるかという問題を考えるときにそれを活用してみるとどうなるだろう。そういう風にして、私は日本にいながら、日本人が過去に作ったある作品を通して世界で起こる問題に向き合うことができるか、と。そういうことを元彼女と話した。批評という営みと、読解の自由度とは、微妙な関係にある。そこで連想されるいくつかの動画*9がある。

それではあなたはどうなのか

 さてそろそろ終わりにしよう。私はややずるい感じもするが高山・埴谷のハイブリッドのような批評をしたいと考える。つまり、作品にさりげなく登場するちょっとしたものについて、ものすごくこだわって色々なことを調べ、そのときに越境を繰り返して解釈を深めると同時に、作品に描かれなかったもの、作者自身すら気がつかなかったような作品自体の持つ可能性、ポテンシャルを最大限引き出す、そういう超文学的にして精神分析的な批評を。

*1:ピクチャレスク - Wikipedia

*2:

光学 (岩波文庫 青 904-1)

光学 (岩波文庫 青 904-1)

 

 

*3: 

plousia-philodoxee.hatenablog.com

*4:

草枕 (新潮文庫)

草枕 (新潮文庫)

 

 

*5:

夢十夜を十夜で (はとり文庫 3)

夢十夜を十夜で (はとり文庫 3)

 

 

*6:

近代文化史入門 超英文学講義 (講談社学術文庫)

近代文化史入門 超英文学講義 (講談社学術文庫)

 

 

*7:

plousia-philodoxee.hatenablog.com

*8:

 

*9:


斎藤 環(精神科医・批評家)×大澤 聡(批評家・メディア史研究者) 批評の奇妙な思春期 ...


佐々木 敦 (批評家、早稲田大学学術院教授) 渡部 直己 (文芸評論家、早稲田大学 ...


波戸岡景太×大澤真幸 コンテンツ批評とは何か? - YouTube