教育をめぐる歴史的な問題

 学校や塾*1というのは、その時その時の権力の中枢とのどのような関係の中から生み出されてきたものなのか。権力によって生み出された装置としての諸制度や諸機関、そして時の言説について考えたのはミシェル・フーコーだった。

 それはいくら「学校」や「塾」自体を単独で調べていっても見出すことができない視点であって、「実体」でなく「関係」に注目することで初めて見出される。そうした「関係性」に注目する問題意識というのが、ソシュール以来の言語観に基礎を置く構造主義の原点であり、先に述べたフーコーもまた、何か自明な実体が存在するという考え方を拒絶し、私たちが実体と思い込んでしまうものの間に潜む関係性に注目することで、権力の振る舞い方を暴き、我々がそこから自由になるにはどういうことが必要かということを示そうとした。

  学校教育というのは大衆教育として誕生し、人口の増加に伴って生徒の数も増え、例えば現在の日本では、一人の教師につき3040人の生徒が相手になるという関係が当たり前のようになった。大衆教育が生まれる以前のヨーロッパにおいては、教育といえば家庭教師が担うものであり、したがって一対一であり、その形態ゆえに一部の貴族だけが享受することのできた贅沢品であった。しかし社会を構成する中心的な主体は市民であると捉えられるようになって以降、つまり市民社会の到来以降、社会全体が教育を必要とするようになった。贅沢品は必需品に変わった。そしてそのとき、教育を与える側と与えられる側との間の需給ギャップが大きいことが原因で、必然的に一対一から一対多への構造変化が起こった。そしてその変化を支える政府との関係性の中で、教育というのは画一性、均一性を求められるようになり、家庭教師時代の持っていた教育のしかたの多様性が失われていった。現在は授業料の高い私立学校だけが、その多様性をかろうじて保っているにすぎず、その多様性はやはり金額になって反映されている。だから多様性を前提とする教育を受けようと望むものは、一部の金持ちに限られてしまうのだ。贅沢品は、必需品になることを拒絶することで辛うじて贅沢品としての体裁と実質とを保っている。

 先ほど「需給ギャップ」という言葉を使ったが、そこのところについてもう少し話を膨らませようと思う。需要が供給を上回れば、価格は上がるというのが価格体系の自然な反応である。経済学ではそう考える。しかし実際には、教育の価格は上がるどころか下がった。これは政府による事業として教育が公共的に提供されたという事情による。「義務教育」という概念は、教育を万人に解放することに貢献したが、同時に標準的な価格体系に逆らいながら実現された。その歪みが特になんの問題も生み出さないならば、教育をめぐる現在の問題が起こるようなことはなく、また私がこの記事を書くこともなかっただろう。しかし実際にはその歪みは、どこかで解消されないわけにはいかない。それではどこで解消されたかと言えば、教育を通じた労働力の充実と、それに伴う税収の確保によって、である。税収を増やすことによって、教育を提供するのに本来必要なコストは万人が間接的に負担することになった。

 しかしこうした費用負担の構造は、標準的な経済学における価格体系とは異質の価格メカニズムとは整合的でなく、その結果二つの大きな問題となって表面化し、しかしその因果関係は指摘されないままに、現在に至っている。そのうちの一つが公務員の給与体系であり、もう一つは近年、民間企業による大学教育の非難の激化である。特に後者の背景にも、こうした価格体系の歪みが確実に影響を及ぼしているのではないかと私は考えているが、こうした見方を正当なものとするためには、どうしても歴史的なアプローチが必要になる。

 まずは前者の問題から簡単に述べておこう。公務員の給与体系は今も年功序列であり、年功序列には一定の合理性もあることが指摘されてはきたものの、年功序列でいくならば、若い教員のモチベーションとスキルの向上を担保する補助的な仕組みがなければならない。しかしそういう仕組みは見当たらない。だから若い教員は、生徒との間に問題は起こしても、育っていくことがない。そして給与水準は低く、その割に労働生産性を向上させるようなインセンティブは年功序列の仕組みでは生じないから、長々と時間をかけることになる。こうして自己投資は十分に行われないままに時間が過ぎ、それでも年とともに給与水準はお構いなしに上がっていく。もっとも多くの投資を行うべき時期に、そのための資金が最も不足してしまうのが公務員における年功序列の問題点である。もし民間企業であれば、金融市場を通した投資も可能であっただろうが、公的機関である学校では金融市場からの投資など存在しない。ただ政府による予算配分があるばかりだ。その配分は教員ごとではなく学校ごとに行われるので、投資されるべき教員に投資が行われるかどうかは民間ほど透明でも確実でもない。そういう環境で年功序列がまともに機能するとは思えない。

 次に大学教育に対する批判の強まりという点についてである。これはしばしば、「文系学部の必要性」という形で問題が矮小化されているきらいがあるが、問題の本質はもっと歴史的であって、それだけに根深いものだと私は考えている。つまり家庭教師から集団教育という形で教育の形態のが変化したことと、集団教育とは整合的でない費用負担構造になってしまっていることの二つが問題の根幹にあり、文系学部を批判することは問題への理解が表層的であると感じる。先ほど費用負担の構造について軽く触れたが、この点をより詳しく述べよう。

 教育の費用を負担するのは、最終的には国民の税金ということになったことはすでに述べた。このため、税収の水準が安定的、あるいは上昇傾向でなければ、教育は一定水準で提供されることはない。特に高等教育は費用がかかるため、一国の経済が傾くと教育分野の中で最初に影響を受けることになる。そしてその費用を負担することが最も困難であると一般企業に認定されてしまったのが文系学部ということだ。そういう形で現在の問題につながる。しかし繰り返しになるが、ここで文系学部を非難しても問題の根本的な解決にはならない。もし他の学部も費用を負担することが難しいと判断されれば、またそこが非難の対象になるのだ。

 そしてこうした表層的な理解とそれに基づく対処ということに、私は既視感を覚えるのだ。それは武力行使によってテロ組織を殲滅すればテロを消したことになると考える短絡的な思考様式を見せる国々を連想させる。テロについていえば、仮にテロ組織をうまく殲滅させることができても、「武力行使」という手段自体が、テロ組織とは無関係な民間人の犠牲者を生み出し、また武力行使の背景に見え隠れする宗教的差別意識を明らかにすることを通して、新たなテロ組織の台頭を促すのだ。だから根本的な解決にはつながらない。こうした問題についてはすでに以前の記事*2で述べておいた。

 

 価格体系が通常のように機能しないことによって、そこに歪みが生まれる。その歪みをうまく解消するかにはどうすればいいかという根本のところを論じなければならない。これについて、アメリカの場合は実績を上げている一部の有名私立大学が法外な授業料を取っているが、いくら実績を上げていようと、あるいはいくら奨学金制度が充実していようと、そもそも法外な授業料を取ること自体がおかしい。奨学金制度がうまく機能するのは国内で所得分配に著しい偏りがないという条件を満たす場合だ。1%の人々が富の半分を独占するような国で、奨学金を返済できる人間は何%いるというのだろうか。制度破綻ではないだろうかと思えてならない。教育の費用対効果が最も高いということを実証によって示した国の高等教育がこれでは本当に教育を重視しているのだろうかと首をかしげてしまう。海外から優秀な人間を集めることでどうにか実績を維持できているだけで、国内の優秀な人間を育てることに成功していない教育というのは、少なくとも持続可能な教育とは言えないのではないか。 

 現時点ではこの程度の薄っぺらい思考しかできていない。まだまだ調べが足りていないので、また追加でわかったことを元に、改めて記事を書くが、この記事はここまでで終わることにする。

 

 

*1:ここで「塾」とは、個別指導塾でなく、集団授業を行う予備校などの塾を指すものとする。

*2:

plousia-philodoxee.hatenablog.com

 

plousia-philodoxee.hatenablog.com