言葉とwordと私のあいだ

 

ある対話

 今日は久々に元彼女と会って渋谷のスターバックスで話した。11:40頃から15:40頃までの間であるから、おおよそ3時間半から4時間というところだ。この長きにわたる対話の基調になったのは、ことばだった。私が日本版のWIRED誌『ことばの未来』*1の特集を最近読んだことが背景にある。ここではその対話の中でも特に、翻訳と文字の関係について書こうと思う。きっかけになったのは、先ほど紹介したWIRED誌の表紙に書かれている「ことばの未来」というタイトルである。これがもし漢字で「言葉」と書かれていたら、きっと印象が違っていただろう。それは何が違うということなのか。対話はそういう風に進んでいった。

表音文字表意文字

   英語は表音文字であるアルファベットで書かれ、日本語は表音文字である漢字が中心になって書かれる。厳密には表音文字であるひらがなも混じっているが、私たちが言葉を思い浮かべるとき、ひらがなか漢字かと言われれば、漢字の方を知っていればごく自然に漢字の方を思い浮かべるのではないか。だからここでは日本語を表意文字である漢字を中心にして捉えるという見方をすることにする。

 翻訳全般に見られる一般的な問題でなく、表音文字表意文字の間で翻訳を考える場合にのみ起こるような、ある特殊な問題というものがあるのではないか。「言葉」という言葉を漢字で見るのと、「word」や「language」というアルファベットで見るのとでは、同じ意味を指し示しているようで、実は違う。「言葉」という文字列を見ると、そこに「言う」とか「言(こと)」とか「葉(は)」という別の言葉が埋まっている。その組み合わせとして言葉という一つの語が構成されている。もちろんこんな風に言葉という文字列を捉える人ばかりではないだろう。しかしそう思いやすいようにできているということは指摘できる。そういうポテンシャルを秘めた表現であると。一方で「word」とか「language」という文字列を見ても、「say(言う)」とか「leaf(葉っぱ)」という言葉がその中に埋まっていると考えるものはいないだろう。そこに日本語と英語の間の、言葉のもつ固有の広がりの差異がある。そしてこういう差異を抱えた個々の言葉たちがまとまって、日本語と英語というそれぞれの言語を作り上げている。それは一言でいえば、表音文字表意文字の違いに帰着される。

 「翻訳」というときには、或いは高校や大学までの英語の授業などで「和訳」というときには、一方の言語のある単語と、他方の言語のある単語を、一対一に対応させるような考え方を自明のもののように扱う。それが直訳という考え方の背景にある思想であるといえる。もちろん内容の高度な英文や、上位大学の入試問題ともなれば、いわゆる「意訳」という形で、一対一的思考ではないしかたで翻訳を行うことになる。端的に言って「thank you」という二語の表現を直訳する人間はいないだろう。

 言語によって、ある言葉がもつ広がりや意味内容が異なるということはしばしば指摘されてきたことであるが、文字の違いがもつ視覚的な効果については、まだそれほど体系的に論じられていないのではないか。先ほど表音文字表意文字の違いに帰着させた問題というのは、ここで言い換えれば視覚的な効果の違いという風に表すこともできる。

   「Google moi」や「Facebook me」のような、固有名詞の動詞化は、英語圏に特有の言語表現なのかと思っていたら、日本の中でも「ググる」や「津田る」という表現が、主にネットスラングとして出てくる。それは日本人の中にも、アメリカ人とは独立して、固有名詞を動詞化しようとする傾向がもともと存在していたと見るべきなのか、それとも映画やドラマやファッションを通じた、アメリカ文化や英語の流入に影響された結果として生まれてきた現象と見るべきなのか、その判別は難しい。形容詞の「popular」の後ろに接尾辞の「ly」が付いて副詞「popularly」になったり、或いは後ろに「ity」が付いて名詞「popularity」になったりするように、ある品詞が別の品詞に変化するというのは、英語ではおなじみの現象であるから、「Google moi」や「Facebook me」のような表現が生まれてくるということなのかもしれない。日本語にはこうした品詞の変化はあまり例がないから、こういう用法が生まれにくいのかもしれない。

 こういうことは、自然言語処理によって統計的な裏打ちを得ることができるかもしれない。*2。しかし自然言語処理はその基礎に統計学がしっかりと横たわっているため、ある程度の大規模な集団の傾向は分析できても、一人一人の個人レベルの反応は分析できない。

   言葉をどう受けとめるかという問題は、個人の主観を抜きにしては説明できない。したがって客観的にこうだということをいくら示したとしても、それで主観の内実を示したことにはならない。その区別は常に意識しなければならない。

 インターネットと検索エンジンとことば

 何か知りたいことがあるとき、インターネットでは「言葉」によって探すという方法しか使えない。私たちは今でも、何かを調べるときに当然のように検索ボックスに言葉を打ち込んでいる。だからどの言葉を使うかによって自分の知りたいことが発見できるかどうかは大きく変わってくる。しかし時代や社会の変化によって、あることがらを指し示す言葉というのは変わっていく。

 例えば江戸以前には「身(み)」という言葉で指し示されていたことがらは、現代では「体」とか「カラダ」とか「身体」という言葉によって指し示される。そのいずれも、具体的な実体としての身体がもつ広がりとぴったり一致するような広がりをもつことはなく、それ以上の広がりをそれぞれ抱えている。検索エンジンは今も、この違いを埋めることができない。あるいは通訳することができない。それは検索エンジン自身が、言語を理解するために構築されたシステムではないからだ。何かを調べるときに、言葉を使うことによって調べるというしくみでありながら、実際には言葉に対する思想性の浅さを感じずにはいられないのは、それがコンピュータ科学という、「言葉」が中心的な主題として研究されない分野の人間が検索エンジンを作ってしまったからだ。そしてそれが実用性というプラグマティズムに根を下ろした文化の中で評価されることで成り立つ国、そして同時に強大な資本を抱えてもいる国から世界に広がっていったからだ。

 こういうところにアメリカ発、あるいはシリコンバレー発のイノベーションの抱える限界があると言えるのかもしれない。つまり、なるべく若い時期に起業してビリオネアになったかどうかでイノベーションの価値の評価が左右されるという風土がそこにはずっとある。若いことは素晴らしい。大学をドロップアウトして日本でもイノベーションをやかましく主張されるところでは、こうした価値観が無自覚に信仰されている。「大学を中退して起業して100万ドル稼いだ」ということに比べれば、その背後にどんな思想があるかということはほとんど重要でない。そういうことは評論家に任せておけば良い、と。背景にある思想よりも、現実にもたらされる効果こそが重要である。それがチャールズ・サンダース=パースからウィリアム・ジェイムズを経て現在にまで至るプラグマティズムの伝統である。

 ここで先日書いた記事*3とここでの論点との関連をひとこと指摘しておきたい。手書きの文字には、キーボードでタイプされることで表現された文字とは異なる質感がある。字体は個人的にしてユニークなものであり、またキーボードによるタイプよりも大きな自由度をもって表現される。インターネットや検索エンジンというのは、すべてキーボードによって表現された文字しか処理できない。その文字の背後に潜む一人一人の「気分」や「感情」や「意志」などを、すべて平板な均一のフォントに均して評価する。パソコンでもスマホでもいい。そのディスプレイの上には、いつもおなじみのフォントで、いつもおなじみの大きさで表現された、書く者の個性を失った、或いは主体を失った文字が並んでいる。実に厳格であると同時に、柔らかさと多様性を失った文字の姿がそこにある。インターネットの中ではすべての日本語は単一であり、すべての英語も単一であり、その他のあらゆる言語が、それぞれに単一の形式のもとで評価され、そこには個々の言語を表現する者の個性は存在しない。その事実はただ、「検索履歴」というお粗末なエクスキューズによって隠蔽されている。

 手で書くことによって検索が実行されるようになることは可能だろう。しかしそれは、上記のような均一的なフォントに変換されて処理される以上、手で書くことの意味を失っていると言わなければならない。私たちはかくも、何かを手で書くということについての思想を失ってしまっている。それは日本人の思索性のなさといった、日本に固有の問題ではない、アメリカ発の、金融危機にもひけをとらない危機であると私は思う。やっかいなのは、その危機の大きさを客観的な指標によって測ることができないために、見逃されてしまいやすく、また共有されることも難しいという点にある。

書くことの中に私を求めて

 表音文字表意文字の違いというところから翻訳の問題を考えることを通して、検索エンジンが文字を評価することの耐えられない軽さとでも呼ぶべきものにまで話が進んでしまった。一見すると互いに別々の核のもとに構成されているように思われる二つの思考はしかし、言葉に向き合う者の主体性、或いは主観性という一点によって通訳が可能である。

 寒さによってか、或いはタイプのしすぎのためか、先ほどから右手の薬指が痛く感ぜられる。私は私自身の主体性を、或いは主観性を代理するところの私の手に敬意を表し、その休養の必要性を認めてこの記事を終わる。

*1:

 

*2:「裏打ち」という言葉は吉本隆明の詩の中にこの言葉が使われていて、私の心にそれがひっかかってきたという経験が影響しているのだろう。以前までの自分なら「裏打ち」の代わりに「根拠」とか「正当性」という様な言葉を使っていただろう。

*3:

plousia-philodoxee.hatenablog.com

plousia-philodoxee.hatenablog.com