時間と日常

   女子高生が駅のホームで時刻表を見て1つ前の電車の時刻を確認し、「あぁ〜、40分かぁ〜。間に合ったね。」と言っていた。

   できるなら早く電車に乗りたいという欲求がそこには汲み取れるように思った。そこから一歩、考えを進めていくと、そもそもどうして「一本前、一本前…」という風に時間を短縮させようと考えるようになったのかということが気になり始める。校舎を出てから電車に乗るまでの時間を縮めるという目的に沿って考えるのは、それが効率的であるということ、或いは時間がもったいないとか、無駄をなくしたいという意識の表れなのだろう。

   こうした意識を、欧米風に形容すれば「効率主義」ということになるから、その形容に沿って考える者たちは「女子高生たちは欧米風の効率主義を自然なものとして自らの内に抱え込むようになってしまった」とか「欧米的思考様式に染まってしまった」とかいう風に解釈する。
しかし本当にそうだろうか。電車に乗るまでの時間を短縮し、なるべく早い時間の電車に乗ろうと考える意識というのは、日本の中にもともとあった意識なのではないか。そういう意識から生まれた言葉が、少し前に流行った「もったいない」という言葉ではなかったのだろうか。もちろんあの流行は、欧米的なものの考え方に染まった日本人が、それでも日本人としての独自性を持つようなものにすがりたいと願う分裂的な意識から生まれた現象であったと見ることもできる。しかしそれでもなお、もともと「もったいない」という言葉が生まれた背景にあるもの、或いは底にあるものが消えたことにはならない。そこには確かに、日本に特有の、あえて欧米的に言えば「効率主義」としか形容のしようがないものが確かにあったのではないかと思われる。

   こうした意識について考えていると、私は職人や調理を連想する。職人的な意識のあり方というものは、何かを生み出すときの一連の手順を洗練させるところにも表れてくる。無駄のない手つき、迷いのない筆さばき、流れるような作業…。流れるような作業というのは、何もベルトコンベアに乗って生産が行われる大量生産の文脈にのみ存在するものではない。その素を生んだイギリスの、或いは後のアメリカの文化とは切り離された、日本の中世の各地に散財していた職人的意識の中にも確かにあったのではないか。我々は今、「流れ作業」という言葉をチャップリンやフォードや産業革命といった言葉と共に、或いは日々のマニュアル仕事の中で捉えるが、この言葉を生んだ意識は、それらとは別の文脈、日本の中世に生きた、各地の職人たちと結びつける、そういう結びつけ方もある。

   また私は、こうした職人気質とは別に、調理ということを考える。何かを調理するとき、調理する者はその手順に無駄がないように意識する。同時進行で複数の細かい作業を行い、最後にそれは1つの、或いは複数の品となって食卓に並ぶ。こうした調理的意識というのが、かつて、或いは今でもそれを主として担う女性たちの中に根付き、それは家計簿をつけるときに生まれる節約の意識や、買い物に行くときに合わせて他の用事も済ませる「ついでに」という言葉に象徴されるような意識などとも結びつきやすいことは想像に難くない。こうした意識の体系が、いわばエンジンのようなものとして、家庭の内側において展開される生活様式の核心を成していたといえる。

   それではこうした意識の体系は、料理や家事や買い物といった実践を経ずに親から子へと受け継がれることがあるのだろうか。私が駅で見かけた女子高生たちは、それぞれの家庭で料理を教わり、買い物に付き合い、或いは後に買い物を頼まれ、ついでにあれやこれやも済ませてもらうように頼まれ、家計簿をつけるように言われた類の女子高生たちだったのだろうか。

   こうしたことを考えていると、私の心に一冊の本が浮かんできた。最近ちくま学芸文庫で文庫化されたシュッツの『生活世界の構造』という本がそれである。
或いは一本の動画も浮かんできた。「食べることのファシズム」と題された対談の動画であり、山室信一さんとさんが食べるということ、或いはキッチンを巡ってファシズムがどのように展開されたのか、さらに踏み込んで言えば、ある思想ないしイデオロギーというものが、私たちの生活のさりげない一場面、何気ないひとつひとつの行動の中に、どのように影を落としているのかということについて語り合っている。
   私はといえば、最近通勤手段を電車からロードバイクに切り替えた。その背後にある私の意識については、以前に記事で明らかにしようと試みた。しかしその一方で、日々電車を利用する多くの人々の意識の底に潜むものにも関心を持っている。
   私は今日は電車で通勤している。だから様々な人々を駅のホームや改札へ至る道の間に目にすることになる。それぞれの人の意識の底にあるものを聞き取りたい。