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売られた本の奥にあるもの

26歳 内省 思想 日常 東京 歴史 科学

 ブックオフへ行くと、少し前に人気があったはずの本、世間を賑わせた本、ベストセラーとされていたはずの本があるのを見かける。そういう本が一体どうして、所有者の手を離れて、今やこの棚に静かに収まっているのだろう。そういう本をぼんやりと見ていると、ここはまるで墓場のようだ。静かに並べられた本の群れ、そのいずれかが手に取られることがあっても、書店とはまるきり異なる。そこには「誰かが一度手放した」という事実が付きまとう。

 

読み終わったからもう必要ないと思われたのか、

取っておくほどの価値はないと判断されたのか、

止むに止まれずお金のために売らざるをえない事情があったのか、

いろいろな事情が想像される。

 

 しかしブックオフに並べ置かれている本と同様に、そうした元所有者の声もまた、どこかに並べ置かれるようにして保管されなければならない。中でも特に、「取っておくほどの価値がない」と判断された場合に、なぜそう判断したのかについて、その思いについてなんらかの記録が残っていなければ、それは人々の間で「記憶」として共有されないままに失われてしまうのではないか。

 

トマ・ピケティを売った。

ドラッカーを売った。

マイケル・サンデルを売った。

村上春樹を売った。

ワンピースを売った。

 

それはいい。しかしなぜ売ったのか。それは売られた日時や場所だけでは読み切れるものではない。それはまだ考古学の対象でははないはずだ。

 

 経済物理学は進歩している、それはいい。人工知能は発達している、それもいい。或いは科学は進歩し続けている、結構なことだ。しかしそれでもなお、本を売った者の思いのすべてを汲み取ることなどできないままなのだ。それは一点の曇りもなく整然とまとめられた、変数たちの要素還元的な響きからも、いともたやすく逃れる類のものだ。 

 科学のレンズを通して人間を見て、その行動までは説明がついても、我々はその原因になっているものを捉える視覚を獲得することはできない。それを見ようとした刹那にレンズは曇り、或いは全く違った的外れな映像を我々に錯覚させる。