音楽と記憶

   槇原敬之の曲が、たまに脳内でいきなり再生されることがある。無意識からの郵便なのだろう。幼い頃に聞いていた音楽というのは根深いものだと思わされる。母が好きな歌手で、車に乗っているときによく聞いていた。広瀬香美松任谷由実竹内まりや小田和正といった人たちもそうだ。何百回と聞いていることになる。

   私の意識の側では、槇原敬之の評価は変わったはずで、あるときから生理的な嫌悪を覚えるようになってしまった。だから評価はプラスからマイナスへ変わった。そのはずなのに、それでも頭の中で突然流れ始める。嫌いになった曲の方がむしろ思い出されやすいのだろうか。私の無意識に尋ねることなどできない。

   それでは私は無意識を超えられないのだろうか。或いは音の誘惑から逃れられないのだろうか。その曲が思い出されたのは、おそらくはメロディーの方の魅力によるのだろうと思っている。彼の曲がいったいどれほど計算されて作られているのかは知らないが、とにかく流れ出すとどんどん先へ進んでいってしまう。そのメロディーと、そこに乗った歌詞の内容が、それぞれ切り離されて海馬や側頭葉の一次聴覚野辺りに評価されているということなのかもしれない。

   言葉というのは、曲という形式でなくても、抑揚や発音やアクセントなどの形で一定のメロディーを初めからもっている。そのオリジナルのメロディーを崩し、より耳に残りやすい形に加工したものが1つの「曲」であるとするならば、私の耳と頭の中に眠り、時折目をさますこのメロディーとは、私にとってはどんな意味を持つのだろうか。