電車の中で

電車の頻度は、街によって異なる。或いは路線によって異なる。

 電車を利用する一人一人の望みがどうであろうと、それが叶えられることはほとんどない。ある東京人が、東京人的感覚に基づいて「電車の頻度は10分に一本くらいであるべきだ」と考えたとしても、鉄道会社の採算が合わなければダイヤ改正が起こることはない。採算が会うためには一定数以上の投資家が投資する必要があり、その投資家が株主総会ダイヤ改正を提案する必要があり、それを受けて社長がゴーサインを出す必要がある。

 こうした煩雑な手続きにしたがって進められて初めて、個人の望みは鉄道会社のトップに間接的に届く、かもしれない。「間接的に」と書いたのは、鉄道を利用する人がアンケート用紙に意見を書いたり、鉄道会社の人間と話すといった、直接的な方法で望みを伝えるわけではなく、あくまでも投資家の目線、或いは鉄道会社で働く職員の人々の目線を通して「どうも乗客たちはこういうことを望んでいそうだ」と感じ取られるためである。そしてそれは、「あの乗客」でも「この乗客」でもない。あくまでも「乗客たち」なのだ。踏み切るにはどうしても規模が必要なのだ。資本主義でも数の論理だ。

 しかし、投資家が株主総会ダイヤ改正を提案するようになるためのモチベーション(動機付け)を担保するのは難しい。個人ごとに見れば、そういうことを考えて投資を行い、株主総会でも発言するような投資家もいるかもしれないが、全員がそういう風に考えるようになるためには、制度や文化のような、マクロなレベルの一定の構造物からの後押しが必要になる。制度派経済学の展開される背景にはこういう認識がある。ミクロな経済主体でもマクロな経済主体にも解決できない問題があるときに、「制度」をつくることによって解決しようと考える。或いは制度によって、問題が起こること自体を防ごうとする。「金融危機を再発させないためにはどういう行動が必要か」ではなく、「どういう制度が必要か」ということを問題にするのだ。

 制度は国会や地方議会でなされた議論と採決を通じて生まれるが、議会でそういう制度改革の議論が生まれるためには、一定数の国民ないし地域住民がそれを問題であると認識していなければならない。議員や専門家だけがいち早く問題に気づいても、市民が同意しなければ行政として動くことはできない。それが合法的手続きによって権力をしばることの意義でもあるが、その分腰は重くなる。そして手続きは市民にとってブラックボックスになってしまう。

 また文化が成立するにも、一定規模以上の人間の賛同がなければならない。ある曲がヒットするときのことを考えると、案外簡単に売れたりもするが、息の長いヒットがなければ、それは文化になりえない。ただ文化には政治的手続きがない分、文化の方に期待したい気はする。その分、作り手と作り手を育てる環境の整備が重要になる。そういう環境が今の日本にあるかと言われれば、期待すべき動き*1がいろいろあるので、そういう動きに期待したい。

 個人が最も重要であるとか、個人が最大限尊重されるべきであると吹聴されながら、その一方で個人の意見など数の論理でいとも簡単に圧殺する代議制民主主義の素晴らしさを吹聴され、矛盾に引き裂かれる人々。日本人は過去にヨーロッパで生まれたものを素晴らしいと信じて取り入れてはみたものの、それをまともに理解することなく今に至っている。それなら日本の内側から代わりのものを出してきたかといえば、そんなことはちっともない。それではそういうものを生み出せないかといえば、そうでもないんじゃないかと私は思ってしまう。何かあるのではないか、と。