「あの花」と『王の二つの身体』をめぐって

 今日の夕方頃、彼女と家であの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。(「あの花」)*1を見ていた。作品の内容についてはここでは語らない。私にとっては4周目で、作品自体よりもそこから連想するものや比喩的に描かれているもの、象徴しているものについて考えることの方が多くなった。

 幼い頃に死んだ「めんま」はどうして「じんたん」の元に現れたのか。忘れてほしいからなのか、忘れないでいてほしいからなのか、忘れる・忘れないをはっきりさせないままいつまでも引きずって生きていてほしくないからなのか。或いはじんたんの母の生まれ変わりとして現れたのか。

 作品に即して考えていくと、めんまの姿が見えなくなっていくのは、じんたんの母とめんまの二人の願いを叶えたときが起点になっている。めんまの姿が見えなくなっていく間に、登場人物たちはみな、「自分はめんまをどう思うか」ということが心の中で前面に出てくる。めんまの姿が完全に消えてしまう直前、そこで初めて、めんまの死にそれぞれがそれぞれなりに向き合った結果が現れてくる。それは声になって外へ出てくる。めんまにもその声が届く。そしてめんまは姿を消す。

 この作品は死者とどう向き合うかということが大きなテーマとしてある。しかも向き合うのは幼い頃から高校生に至るまでの間の子供たちである。途中で母や父も登場するが、描かれているのはあくまでも子どもたち、死に向き合おうとしながらうまく向き合えず、それを押さえ込んでいることにずっと気がつかないでいる子どもたちが中心である。

めんまに重なる祖父、そして死者の生

 最終話を見終わる頃、私にとってのめんまは祖父かもしれないとふと思った。作中でいつまでもめんまを忘れられずに引きずってしまう登場人物たちは、最後にめんまの死を受け入れ、それでもめんまを忘れてしまうのではなく、心の中にめんまを抱えながら生きていく。私の場合はどうだろう。私は今でも時々、祖父のことを思いだす。祖父ならこれについてどう考えただろうか。祖父と今会えたら何を話すだろうか。どこへ行こうとするだろうか。また将棋をしたい。一緒に釣りをできないまま終わってしまった。後悔したり思い出したりすることを通じて、終わってしまったこと、失われてしまったということにぶつかる。

 死者への向き合い方、或いはそれを通じてどんなことを思うかは人それぞれだ。「あの花」の登場人物たちはまだ若いからということもあってか、めんまの死を通して「自分の死」を意識することはない。あくまでも死者であるめんまとどう向き合うかということだけを考え続ける。私が祖父という死者と向き合うときも同様なしかたで向き合う。祖父のことを思い出すとき、私はそれによって自らの死を意識させられることはない。あくまでも祖父と私の「関係」だけが私の意識の全面を満たす。そしてまた、祖父が起点になって、私の知人の死との関係も意識するようになる。私の知人の生は私の中で継続する。それは私の知人の死と言ってもいいかもしれない。いつまで生き続けるのか、おそらくは私自身が死を迎えるまで、彼ら、彼女らは生き続けるだろう。それは死者なりの生のあり方であって、いわゆる生者の生とは異なる。

 それではその生は他者に引き継がれることがありうるか。おそらくそれは難しい。祖父が書物やノートなどの形で記録を残していれば、祖父とは会ったことも話したこともない人の中に、祖父の死が引き継がれることもありえたかもしれないが、そういう記録はほとんどない。わずかに写真や蔵書が残っているばかりである。或いは私が祖父について他者に語れば、それを印象深く受け止めた他者の中で、祖父が生き続けることがありうるかもしれない。私は祖父の生には語るべきことがいろいろあると考えているため、他者にこれを語ることがある。

 死者の生は、生者の生よりも制約が少ない。根本のところで条件が違うのだ。生者は食べ、病を避け、他の生者との関係を気にし、労働しなければならない。そういう条件の中で営まれるのが生者の生であり、いわゆる「生」の内実であるともいえる。それでは死者の生はどうか。死者は食さず、病はなく、労働はない。ただ関係だけが、生者にとってのそれとはやや異なる形で残っている。そしてその関係を通じて、死者は生者に思い出されることを通じて生き続ける。そういうしかたで生きるのが死者である。そのためには死者を語る者が必要になる。祖父の残した遺品だけでは、仮にそれを記念館のように丁寧に保管して公にしたとしても、それだけで祖父が生き続けることはないだろう。文芸評論家や批評家と呼ばれる人々の役割はこういうところにもある。殺してしまってはならないと思える死者を生きながらえさせるのだ。ここでいう「殺してしまってはならない」というのもまた、生者の死とは異なった意味での、或いは異なる条件のもとにある死者の死を指す表現である。死者は生者を通してしか生きられないという条件がある。こうした死生観が生まれ、やがてそれが宗教を生み出すのに、大した時間は必要でない。

死者の生と王の政治的身体

  死者は生者とは根本的に異なる条件のもとで生きている。イエス・キリストマホメット、ブッダ、マハーヴィーラ、シク・ナーナクといった宗教的指導者に限らず、ホメロスからドストエフスキー夏目漱石埴谷雄高に至る世界各地の作家や、尾崎豊のようなミュージシャン、或いはもっと身近な死者でも同じように、死者としての生をもっている。忘れられることがなければ、死者は生き続けるのだ。だから逆説的な言い方をすれば、永遠に近い生を生きることができるのは、生者ではなく、むしろ死者の方である。永遠の存在としての死者というモチーフは、私にある歴史家を連想させる。

 少し迂回するような書き方になるが、ここで最近私が見た動画を一つ取り上げる。


平野 啓一郎(作家) ×大澤 真幸(社会学者) いま何が起きているのか ——日本社 ...

 これは大澤真幸さんと平野啓一郎さんの対談で、ずいぶん前に一度見て、結局は途中で見るのをやめてしまったのだが、今日になって再び見たといういきさつである。それは「あの花」を見た後のことだ。動画を見ていた時には特段「死者の生」などということを意識していたわけではなかったが、動画を見ながら、或いは見た後であれこれと考えるうちに、「あの花」を見て感じたことや考えていたことがこの動画の内容とも結びついてきたように感じた、そういう順序である。

 この動画の中で、エルンスト・カントーロヴィチ『王の二つの身体』*2について触れる部分がある。私が「死者の生」とその永続性について考えていた時に連想された歴史家というのがこのカントーロヴィチである。

 カントーロヴィチは同書の中で、王には「政治的身体」「自然的身体」の二つの身体があることを指摘し、王は永遠の存在であることを民衆に納得させるのに、「政治的身体」というものがどう説明されるのかということを緻密な叙述で説明していく。自然的身体は王の肉体そのものであり、病や老いを免れることができず、有限の生の中にある。一方で抽象的な身体である政治的身体の方は、有限性に縛られず、受肉の対象が誰であれ、あくまで「王そのもの」として存在し続ける。王のアイデンティティは、リチャード2世やルイ14世のような個別の王とは別の次元で、或いは個別の自然的身体とは別の次元で、政治的身体を契機として保障されるという構造になっている。そしてこのようにして王は永続性を獲得し、現在に至るまで王政の国が存在し続けているという事実の根拠にもなっているといえる。だから自然的身体を抱える個別の王が死んでもなお、政治的身体としての王は生き残り続けるのだ。ここにはさきほど述べておいた、生者の生と死者の生をめぐる条件の違いが対応している。

 ただし、カントーロヴィチの議論とは異なる点もある。カントーロヴィチは「王」を起点に考えているため、すでに民衆から認知された「王」という特殊な存在の永続性について考察を進めることになってしまう。それはそれで面白いテーマであることは間違いないのだが、もっと他の死者のありようを「政治的身体」の概念によって説明することはできない。ただちに浮かぶ反例は私の祖父であり、めんまであろう。彼ら、彼女らには政治的身体と呼べるものなどない。だから政治的身体を通して実現される永続性とは異なるしかたで生まれる永続性ということを考えなければならない。

 さらにいえば、この違いの根底には、日本とヨーロッパにおける身体や時間についての認識の差も関係しているのではないかと私は考える。「自然的身体」とか「政治的身体」などと当たり前のように使っているが、そもそもこの「身体」というのは明治以降の言葉であって、それ以前には「身(み)」*3が私たちの身体を指し示す言葉であった。

 

花の色は移りにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに

 

 小野小町の歌だが、ここでイメージされている「身(み)」と政治的身体や自然的身体の中の「身体(body)」では中身が異なるだろうと感じる。身体に関する観念から永続性を構築しようというのがカントーロヴィチの『王の二つの身体』の基本的なアプローチであり、それ自体はとても面白いのだが、これを日本でやろうとするならば、やはり言葉の違いを意識したうえで適用しなければならないと感じる。言葉の違いとは、そこに潜む観念や認識の違いを左右するものだ。日本人にとっての身体とは、そしてその身体観の上に永続性を予感させるような契機を見出すことは可能なのだろうか。日本人の身体ということを調べることで、私は祖父やめんまの存在をより深く見つめられるような気がしている。

 

【追記・構想】

 死者の存在というのは、生者の中で内面化されたとき、どのような意味をもつようになるのだろうか。もしそれが生者にとって様々な判断を下すときの基準点になるということがあるのか。イエス・キリストやブッダやマホメットのような人々を考えれば、宗教の場合はこうした傾向が見られるが、そうでない死者の場合はどうなのだろう。おそらく宗教の場合とは異なる内面化の経路があるのではないか。

*1:

www.anohana.jp

*2:

王の二つの身体〈上〉 (ちくま学芸文庫)

王の二つの身体〈上〉 (ちくま学芸文庫)

 
王の二つの身体〈下〉 (ちくま学芸文庫)

王の二つの身体〈下〉 (ちくま学芸文庫)

 

 

*3:ちなみに「身体」を指すやまと言葉には「からだ」もあるが、このことばが歴史的にどのように用いられ、またどのような形で思想と結びついていたのかということを、私はまだ知らない。実に浅学である。