自分のことばは日本語か英語か

 施光恒さんの『英語化は愚民化』という本の出版記念イベントの動画を見つけ、ここ最近の自分の関心リストのひとつである「日本人にとってのことば(日本語)とはなにか」ということと関係しそうだと思い、見てみた。対談の相手は柴山桂太さん。柴山さんが語る動画*1も何本か見てきたので、「ああ、おそらくこういう展開になるのではないか」ということを予想しながら対談を見ていた。

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 対談の中で、「英語をどんどん使って英語圏でウケそうな(評価されそうな)論文なり思想なり学説なりを作るようになってしまっているのではないか」という懸念を示す箇所がある。いま「箇所がある」と書いたが、それは同時に「基調になっている」とか「通奏低音になっている」と書いてもいい。対談を通じて二人のあいだでそういう懸念の気分はずっと横たわり続けているように見えるからだ。

父、ジャイアン、虎にビビる主体性のない人々

 なんでもかんでも英語でやろうとする「英語気狂い」のような人が増えている。彼ら彼女らを見ていると、なんだか英語圏の人々が「おっかない父」であって、彼らの機嫌を損ねないように、ご機嫌を伺いながら、彼らの好みそうなことだけをおずおずと述べるという、そういうことなのではないかと思ってしまう。「父」でなければ「ジャイアン」でも「虎」でもいい。要するに主体性とか自我が感じられないのだ。或いは自分の足で立っていないとも言える。

 英語はできるに越したことはない。英語ができるようになることによって新しいものの見方をできるようになる。それは単に英語がしゃべれるようになるとか、読めるようになるとか、聞き取れるようになるということ以上のものだ。そのことは私自身の経験に照らして納得できる。私にとって、読書と言えば、コナン・ドイルに始まってエラリィ・クイーンに進んで、時には夏目漱石森鴎外芥川龍之介に行きつつも、カフカヘルマン・ヘッセやアンドレ・ジイドやJ.K.ローリングなど、翻訳された作品を読むことがほとんどだった。だから、私が自覚していようといまいと、自然と海外の人々のものの見方や考え方に影響を受けていたようなところがあるように思う。

 そういう意味では「英語化が問題である」というよりも「主体性のなさが問題である」という方が真相に近いのかもしれない。こういうことは社会科学的に、或いはデータサイエンス的に考えて、特定の変数に還元して実証するのは難しいのだが、変数に還元できるわけじゃないけど、でもやっぱりこう思わざるをえない原因を考えることには、やはりそれなりの意味があると私は思う。

 さて、「主体性のなさ」というものをストレートに扱うのは難しいので、この問題をうまく置き換えられないか考えてみる。ある種の数学的発想だ。難しく思える問題は単純な問題に置き換えて考える。そこで「主体性を作り出すのは何か」ということをまずは考える。私はそれは「言葉」ではないかと考える。日本人の場合は日本語でアメリカ人やイギリス人は英語で、フランス人はフランス語で、トルコ人はトルコ語でものを考えることによって、それぞれの言語で書かれた本や、それぞれの言語でなされた対話や映画やドラマという作品にアクセスし、そこからそれぞれの言語の中に独自に積み重なってきた知に触れる。

 そういう知への「通行切符」が言葉であり、切符を使って知に触れ、或いは自分自身に触れた者だけが、確固たる自我を作り出すことができるのではないか。とすれば問題はこう置き換えられる。主体性の問題は、言葉の問題である。

日本語で考えることと翻訳語を使うこと

 そこでまずは、日本人としてものを考えることと翻訳語を使うことの関係を考えてみようと思う。日本人としてものを考えるということは、日本語でものを考えるということなのだが、この「日本語」というのが厄介で、明治以前と以後で日本語は大きく変わってしまった。明治以前はいわゆる「古文」の世界であり、やまと言葉が中心の世界だった。武士にとっては漢詩が中心だったが、大多数の農民や百姓などにとっては「やまと言葉」や「方言」が中心だった。それを使ってものを考え、それを使ってものごとを知り、それを使って生きていた。

 ところが明治以降、文明開化や富国強兵といったスローガンのもとで、福沢諭吉中江兆民西周といった人々が、英語を「日本語」に翻訳する作業を行った。この辺の事情については柳父章翻訳語成立事情』*2に詳しい。彼らが苦闘したことはわかる。その苦闘の背後にある想いにも私は一定の敬意を払う。それでも依然として、翻訳語は私にとってなじめない」という生々しい現実がある。翻訳の失敗なのか、私の不勉強なのか、どちらが原因かわからないけれども、私と同じく、翻訳語に対して「なじめなさ」「違和感」「遠さ」のようなものを感じる人々は、少なくないように思う。「民主主義」とか「代議制」とか「帝国主義」とか「社会契約論」とか、そういう言葉は日常で使いにくい。使っている人は遠ざけられてしまう。それは言葉の遠さに応じた「棲みわけ」であり、「ニッチ構築」であり、或いはある種の排他主義でもある。

 海外の作品中心が中心だった私の読書経験についてさきほど触れたが、私はそういう経験を通して、翻訳語を日常的に目にし、或いは黙読していても聞こえているように感じられる、それぞれの言葉がもつ「音」(音楽)に触れていたことになる。私の頭の中には日本人を通したヨーロッパの音楽的日本語、日本人を通してみたヨーロッパ的日本語が広がっていたのではないかと思う。それでも普段は周囲にいるのは日本人ばかりである。私が小中学校、或いは高校に至るまで、或いは大学、或いは現在に至るまで、周囲との間にある種の「なじめなさ」のようなものを感じ続けているのには、この辺の言語経験も影を落としているように感じられる。

エピゴーネンたちの生み出す騒音

 そしてその「使いにくさ」というのが「教養のなさ」とか「愚かさ」に安易に還元されてしまう風潮すらある。書店に行くと、「教養人」や「知識人」、「マルクスエピゴーネン」や「ウェーバーエピゴーネン」や「シリコンバレー教信者」や「ドラッカー教信者」や、要するにざっとまとめて「欧米的精神エピゴーネンが私に鬱陶しく迫ってくる。私もまた幼い頃からの読書経験で欧米的精神みたいなものに触れ続けているけれども、彼ら・彼女らのように下品にはなりたくないなとは思う。

 

「もっと欧米(欧米由来の学問)の言葉を知れ」

「もっと『教養』(という名の欧米の知識)を身につけろ」

「もっと英語(ジャイアンの言葉)を使え」

「英語(父の言葉)でものを考えろ」

「どんどん英語(虎の言葉)をしゃべれ」

などなど…。

 

 私はそんなに単純な話ではないと考える。むしろ翻訳語に対する「違和感」には重要な意味やポテンシャルが潜んでいると思うのだ。それは日本語の可能性であり、日本語によってものを考えるということのオリジナリティと関わっている。「欧米的でない」という否定でなく、「日本的である」という肯定の側にある意味やポテンシャルということもできる。

 ここでいう日本語というのは、いわゆる「やまと言葉」に限らない。日常的に用いられる言葉であり、小説の中の言葉であり、文学の言葉であり、究極的には詩の言葉である。詩というのは、その国の言語の本質が凝縮された表現だ。日本であればここに和歌を加えてもいいだろう。対談でもこうした点に触れている箇所がある。翻訳を通して日本語を再発見することもあるだろう。

 

 私にとっての「ことば」とはどのくらい日本的なのだろう。或いはどのくらい英語的、欧米的なのだろう。たとえ日本語に触れていても、それが翻訳である限り、どうしても欧米の雰囲気を伝えているはずだ。どっちの方が私にとっての「ネイティブ」なのだろう。