虹の色は何色か

 「主観と客観の違い」というタイトルとどちらにしようかと迷ったが、私自身にとっては「虹の色は何色か」の方が、私個人の具体的な経験を思い出しながら考えやすいという理由でこちらを採用した。

 高校生の頃、3年生のある日の英語の授業で、先生が「虹の色は何色だと思うか」とクラスの生徒たちに聞いたことがあった。

「7色と思う人は?1、2、3…12、13。はい。では8色だと思う人。1、2、3…」

という風に先生が尋ねていって、生徒は手を挙げることでそれに答えるという形式だった。私は7色でも8色でも手を挙げなかった。やがて先生はこう聞いた。

「それ以外の人は?」

私はそこで手を挙げた。先生はこう尋ねた「藤井くんは何色だと思う?」

「無限です。虹の色の数は無限です。」

 

 虹の色というのは、客観的には、或いは科学的には、どこからどこまでが赤で、その隣は紫で…という風に離散的に、或いはモザイク状に色が並んでいるのではない。虹の正体とは紫から赤へ至る太陽光のスペクトルであるから、ある点ではある濃さの赤であり、そのすぐ隣はそれとはまた異なる濃さの赤であり、その隣はややオレンジを帯びてきた赤であり…という風にして、色は無限に分割される。数直線状の点の数と同じだ。人間は見やすいように目盛りを打つが、本来は点の数は有限でなく、無限の点がそこには埋められている。そのように考えるならば、虹の色とは7色でも8色でもなく、無限なのだ。或いは自分にとって分割可能な最大の数だけ、虹には異なった色があるのだと考えてもいい。

 私が「無限です」と答えたとき、クラスメイトたちは不可思議とでもいうような顔つきで私を見ていた。「また藤井氏*1がなんか普通の人とは違うことを言ってる」という彼ら彼女らの内面の声が聞こえて来るように感じたのを覚えている。それこそこれもまた、先日「分裂する他者」で書いた、私の内部で想定される他者の一例に含まれる他者のあり方である。

 国によって、或いはより正確に言えば言語によって、虹の色の数が異なるという事実がしばしば指摘される。丸山圭三郎『言葉とは何か』*2の中でもこの話が登場する。

 また、私たちにとって、太陽光スペクトルの紫・藍・青・緑・黄・橙・赤の七色への分割ほど、客観的で普遍的で物理的現実に基づいたものはないように思われます。ところが、英語ではこの同じスペクトルをpurple, blue, green, yellow, orange, redの六色に区切りますし、ショナ語(ローデシアの一言語)ではcipswuka, citema, cicenaの三色、バッサ語(リベリアの一言語)では、hui, zizaの二色にしか区切らないという事実は何を意味しているのでしょうか。(同書p.12, 13)

 日本語で表される色というのはどういうものがあるかと考えると、普段は使われないかもしれないが、それはもう色々なものがあることに気づかされる。浅葱色(あさぎいろ)、利休鼠(りきゅうねずみ)、瓶覗(かめのぞき)などなど*3。これは日本語を使う人々の主観が集まって出来上がってきた色の体系である。ここにはひとつの「日本語の世界」がある。それは日本語という主観を通して把握されたスペクトルの分解であり、そこには特定の誰かの主観、或いは感覚が潜んでいる。

 それでは客観的な色の判別はどうか。「世界中の人間たちが、誰でも納得する虹の色の数は?」と問われれば、「無限」というのがその答えになるだろう。「客観的」(objective)というのはそういうことだ。

 しかしここにしばしば落とし穴がある。「客観的には〜」ということを指摘する人、或いは客観性を重視する人は、しばしば客観的に表された事柄が「正解」であり、主観的に表された事柄は「誤り」であるという風にして議論を展開する。そこでは主観的事実、解釈、思想といったものが抹殺される。29%、137億年、132人、1945年…。客観的だ。それは確かにそうだろう。誰しもそれを疑ったりしない。それが確かな事実であると、そう自然に考え、受け入れる。「客観」ということにはそういう力がある。

 しかし、客観的に示された何かと私にとっての何かの間に「ずれ」を感じる場合がある。私が「無限です。」と答えたとき、私自身にとって無限の色が判別できるかどうかなど無関係に、科学的あるいは数学的な感覚にだけ基づいて無限であると自信を持ってそう答えた。そこには私と紐づけられた色はない。或いはずれがある。色でなくても、たとえば時間感覚は主観と客観でかなり違う。かつてこの違いを問題として考えたのがアンリ・ベルクソンであった。最近であれば、「フロー体験」ということを通して、「我々はなぜ楽しい時には時間が経つのが早く感じられるのか」ということを考えるチクセントミハイ*4であると言えるのだろう。「楽しみ」という風にこれを注いでいくとするならば国内でも國分功一郎さんや濱野智史さんも何かに「ハマる」ことの意義について考えている*5

主観的な時間と客観的な時間

 主観的に感じられた時間、或いは「生きられた時間」と、客観的な時間、或いは特定の誰かによって「生きられる」ことを前提としなくても成り立つ時間の間には、「ずれ」があることが多い。こういう風に書くと観念的、思弁的に思えるかもしれない。しかしこの「ずれ」というのは、私にとっては日常の素朴な経験から派生して生まれてくる。ロードバイクに乗っていると、私はしばしばこの「ずれ」を意識させられる。自宅から職場まで22km、移動時間にして1時間程度だが、ロードバイクに乗ったことのない者からすると、この22kmだと1時間だのというのは「ちょっと信じられない」というか、「そんながんばってどうすんの?」という風に思えるらしい。それは彼ら・彼女らとやりとりしていると、そこはかとなくそういう真意が透けて見えるし、実際にそれを口にする者も少なくない。

 しかし私の側からすれば、或いはロードバイクに乗り慣れている側の人々からすれば、1時間などあっという間なのだ。乗っている間にスマホで音楽をかけ、走る道沿いの風景や人や車を眺め、考え事をし、交差点で止まり…とそんなことをしている間に、中間地点を過ぎ、あのコンビニを過ぎ、あのマクドナルドを過ぎ…そして目的地へ着いてしまう。そういうものなのだ。それは実にあっさりしたもので、なんだ1時間なんてこんなものかとしみじみ思う。ロードバイクを通して体感された時間とは、そういうものだ。それはあえて客観的な時間で表すとしたら44分とか、場合によってはラーメンができるのをただひたすら待つだけの退屈な3分間と同じなのだ。

 客観的には自同律の制約にしたがい、どこまでいっても「60分=60分」でしかないが、主観的には「客観的な60分=主観的な44分A=主観的な3分B」ということになったりする。こういうところで自同律が破られるような経験をしていると、埴谷雄高「自同律の不快」ということを問題にした感覚がよくわかる。

 それではどちらの時間の方が重要かと考えると、私にとっては客観的な経過時間としての1時間6分よりも、体感時間としての44分の方が重要なのだ。この体感時間としての44分は、もちろん他者に理解してもらうのが難しい。ひとえに共通の基準に基づかないからだが、それは対話によって解消することができる場合もある。それはどのようにしてか。それは「体感時間」という言葉を通して、対話の相手が経験した彼・彼女なりの体感時間と、私の体感時間とが比べられ、それを通じて二人それぞれの主観的時間が、ある種の共同性を作りだすからだ。

 主観的な時間には純粋に意識だけで感じ取られる時間と、身体がそこに関わって体感されることを通して感じ取られる時間の二つがあると私は考えている。このことについての考えを深めていくにはベルクソン『時間と自由』*6『意識に直接与えられたものについての試論』)を読み直す必要があるように思えてきた。問題点の整理のためにも。

経験できる数字と経験できない数字について

  自分の主観から捉えられた数字と、客観的に示された数字というのは、同じ数字でも内実が異なる。アボガドロ定数は10の23乗である」と高校の化学の授業で教わる。それは客観的な数として、誰に答えさせても10の23乗と答える。しかし10の23乗という数字の「大きさ」というものを、人間は自分の経験に照らして捉えることはできない。3本の鉛筆とか、友達4人と遊んだとか、経験可能な数というものもある。しかし10の23乗という大きさの数は途方もなく大きく、自分の経験に照らして計ることができない。

 アボガドロ定数でなくても、1000億個の脳細胞でも60兆個の人体の細胞の数でもいい。客観的な数ばかりが語られていると、「ではそれはあなたにとってはどういう数なのか?」と聞かれると答えられなくなる。数を認識する当の「主体」というものが不在のまま、数だけが一人歩きしていく。数字を使うのは人間なので、「人間にとってある数がどういう風に捉えられるか」ということを忘れてしまってはならない。「たくさん」という言葉を聞いて、それぞれの個人がイメージする数は異なる。100をイメージする人もいれば、10000をイメージする人もいる。或いは10より大きい数を知らない子どもは10を思い浮かべるかもしれない。客観的な数字というのはこの違いをあっさりと均してしまうが、本当は「どうして『たくさん』という共通の言葉を聞いてイメージする数字が人によって異なるのか」というところを問わなければならないのだ。その差異の意味を探らなければ、人間にとっての数を理解することにはならない。「客観的な数」というものは、ある形式に沿って万人が納得するように設えられた、ただの「約束」にすぎず、それでうまくいく面も確かに少なくないが、それぞれの主体にとっての「内側から把握された数」ということもまた考える必要がある。

 

 最後に、主観と客観ということについて、ベルクソンの『時間と自由』から少し引用して終わろうと思う。

物理学というものは私たちの内的状態の外的原因を計算にかけることをまさにその役割とするもので、これらの内的状態そのものにできるかぎり関わるまいとする。絶えず、かつ断固として、物理学はそれらをそれらの原因と混同する。だから、物理学はこの点に関しては常識の錯覚を奨励し、誇張しさえするのだ。こうした質と量、感覚と刺激との混同に慣れ切ってしまい、いつかは科学が後者を計測する通りに前者を計測しようとするようになる時が来るのは避けがたい運命だったが、そうしたことこそ精神物理学の目標だったのである。

 

*1:高校生の頃、古典の先生に「藤井くんは「くん」っていうか「藤井氏」って感じだよね」と言われて以来、周囲からの私の呼称は「藤井氏」になった。

*2:

言葉とは何か (ちくま学芸文庫)

言葉とは何か (ちくま学芸文庫)

 

 

*3:日本の色の一覧 - Wikipedia

*4:

 

フロー体験 喜びの現象学 (SEKAISHISO SEMINAR)

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楽しみの社会学

楽しみの社会学

 
モノの意味―大切な物の心理学

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*5:

www.youtube.com

*6:

時間と自由 (岩波文庫)

時間と自由 (岩波文庫)