分裂する他者

 先日書いた記事の中で、迷路をめぐる私の経験について少し触れた。私が迷路を書き始めたのは保育園にいたころであり、その頃は脳のようにぐにゃぐにゃとうねったような形の迷路だったが、小学生になるとやがて道がまっすぐで立体交差する道に変わる。

 そんな几帳面な道の形に変わったのは、自分の中で「几帳面」ということについての態度が次第に整理されてきたことを反映しているのかもしれない。つまり「几帳面」と言えば、私の経験を思い起こせば、まずは自分のものをきちんと並べて配置するようになり、もし整っていなければ揃えるようになる。

 次に自分のものでなくても、自分の視界に入っているものでバラバラに配置されているものを見るとなんとなく気分が悪くなり、それに手を伸ばして揃えるようになる。これは今でも続いている私の癖で、書店などでしばしば発動され、平積みされた本がきちんと積まれずにずれていたら揃え、棚に収められた本で少し手前にせり出してきた本があれば他と同じように収め直す。そういう風にして物の配置を整えるという形で外に現れる私の几帳面は、私が書く文字、私が描く絵、或いは迷路という形で色々な方面へと拡大して現れるようになった。頭脳は明晰でいて、書く文字は汚いという人がたまにいる。なんでも東大生にはそういう人が多いとか、数学が得意な人間にはそういう人間が多いと聞くが、私などはどうもそれに耐えられず、頭の中が整然としているならば、手元に現れる私の文字もまた整然と美しく並んでいなければ気が済まないのである。頭の中と、外の世界とが、私の頭の中ではこういう形で連続している。

 さて迷路の話に戻ろう。そういう風にして几帳面さがよく表れているような形をした迷路を書いていたとき、私は他者の視点というものを意識していた。つまりあの人だったらどういう風に道を選んで進んで行くだろう、とかあの人の場合はこういうルールで道を選んで進んでいこうとするんじゃないか、という風に、私の頭の中で想定できる色々な「他者像」をもとにして、行き止まりを作り、ループする領域を作っていった。

 やがて迷路が完成すると、私はそれを学校の同級生たちに片っ端から見せて回り、解かせていった。そして誰も解くことができずに諦めてしまうのを見て一人悦に入るのであった。特にパズルやゲームが得意な人間、成績のいい人間などを相手に迷路を解かせるときが大一番という感じで、迷路を書いているときはいかに彼ら彼女らが見つけられないようなルートを正解にするかということに頭を使うことになった。

 そうして色々な人間に迷路をやらせてみて、意見も聞いた。どこで躓いたのか、どういうところで嫌な感じがしたのか、あるいは率直に言ってこの迷路をやってみてどう思ったか、などなど。そこで意見を聞くことを通して、自分が迷路を作るときに想定していた他者に関するイメージと、現実の他者がどう考えていたかということを比べてみて、自分は本当に他者というものを理解することができているのかどうかということを確認していた。私はそういうしかたでもって他者と関わり、私なりに他者というものを理解していった。そこでは「迷路」がその仲だち、媒介となっていたことになる。

 私が想定していた他者像と、現実の他者像というのは、ときには食い違うこともあった。そこで私の中で、他者が分裂することになる。果たしてどちらの他者が本当の他者なのだろうか、と。そんなの現実の他者の方が真実に決まっているだろうと簡単に判断してしまうことはできない。「現実の他者」といったところで、それは「私」が観察する現実の他者なのだから、私が想定するところの他者と同様に、「私」というフィルターを通して認識される対象であり、その意味では「現実」だろうと「想定」だろうと対等な位置にいると考えられるからだ。そしてそういう他者の分裂につきあたるとき、他者を分裂させた原因は私自身にあることに思い至る。私というフィルターが、そこを通り抜けていく他者を分裂させている、と。

 一人で誰か特定の他者について考えている時、「あの人はどうせ〜だと考えているのだろう」とか「あの人はきっと本心では〜だと思っている」とか「あの人は〜ということに無自覚だ」というような、色々な想定が私の中に生まれてくる。その想定は私の中で自律的に展開されるので、必ずしも現実の他者(想定されているところの他者本人)とは一致していないかもしれない。勝手な思い込みかもしれない。しかし私は他者の色々な発言の裏にある他者の「真意」にアクセスしようとして何らかの想定をでっち上げてしまう。そしてその想定を合理化するような「証拠」ないし「根拠」を探す。あの時ああ言ったということがその証拠だ、とかあの時ああしたことがその根拠だ、というように。

 「真意」をつかもうとすることで、他者は私の中で常に分裂する可能性をはらんだものとして捉えられることになってしまう。その都度表面に示されたことや、これまでに示されてきたことを起点にして「真意」をつかもうとするとき、そこには差異が生まれる。そして他者を分裂させる存在である私自身もまた、私の中で分裂の可能性をはらんでいる。

 分裂する他者と、分裂する自分が交錯しながら私の生は展開される。