恐怖の原点はどこにあるか

   霊、妖怪、化け物、エイリアン、モンスター…。国は違えど人間は恐怖の対象に形を与えずにはいられないものらしい。それは「形がない」(対象自体を認識できない)という事態を少しでも解消したいという欲望がそうさせるのではないか。それらは姿形が与えられていることによって、はっきりと対象化・結晶化する。正体のわからないものについて、人はそれに恐怖し、正気を失う。

 
アメリカは何に恐怖しているのだろうか。
日本は何に恐怖しているのだろうか。
ドイツは何に恐怖しているのだろうか。
もっとスケールを小さくすれば、あの人は何に恐怖しているのだろうか。
そして自分は…。

恐怖への二重の盲目

 見えない対象に対して、世界各地で恐怖が広がっている。恐怖とは、たとえば視覚のように、具体的な対象物の存在を前提としなくとも生まれ得る。いやむしろ、抽象的で観念的なものであるほど、より大きな恐怖を与える。「原発」というのは、具体的な施設でなく、今では恐怖の意匠として語られる。具体的な実態をもつものが、集団のあいだを通り抜けていくうちに、いつしか観念的な存在に変わっている。恐怖は必ずしも具体的な実態を要しないことから、しばしば捏造され、政治的に、或いは商業的に利用される。恐怖を解消することに本質がある産業というのは、長生きだ。広い意味での「セキュリティ構築」は、生物として生まれた人間にとっては永遠の課題であるとすら言える。その捏造と利用の方法は、今や高度に洗練され、人々が恐怖を消し去る信頼を自らの元に取り戻すことはますます難しくなっている。「高度に洗練され」と書いたが、それは人々がかつてのように、自らが恐怖していることに対して自覚的であるということがなくなり、もはや自分が恐怖していることすら気が付かないままに恐怖に対する防衛反応だけが利用されるようになっているということを指しての形容である。人々は何に恐怖しているのかわからず、さらには恐怖していることすらわからないでいるという、恐怖への二重の盲目性を、私たちは日常の中に抱えて生きている。
 
 それでは恐怖の起源は何に求めることができるのか。或いは恐怖の原点はどこにあるのか。そのことについて考えるために、まずは恐怖を減らしたり取り除いたりする手段について考えるというところから始めてみようと思う。手段はいくつかあるが、ここでは「学習」について考える。というのもそれが最も根源的な意味で、恐怖の二重の盲目性を解消する手段であると考えるためだ。ここで「根源的な」と書いたのは、学習以外の手段、例えば防犯装置や法制度の充実、もう少し抽象的なところでは異質なものへの寛容性などの手段は、すべて「学習」によって生まれ、改良され、或いは達成されることによる。
 学習によって、人は特定の対象への認識が変化する。その可変性のもつポテンシャルについては多様性と構造と、それから個人」*1の中で述べた。そして認識が変化することによって、人は対策を講じ、自らの抱える恐怖を減らしたり取り除いたりすることができる。

 例えば、中学三年生の英語の教科書の第6章に公民権運動について書かれた文章がある。黒人女性がバスの中で差別的な扱いを受け、それに対する反発がきっかけとなって黒人が集団をなして運動が開始され、やがてキング牧師が運動の支柱となり…ということがかなり単純化されつつも書かれている。この章では英文法の特定の項目、例えば関係代名詞や分詞の後置修飾などを、文章の読解をしながら学べることになっているのだが、内容の方からも学べることはある。それは現在の日本という国をめぐる状況についての認識を踏まえて考えれば、対岸の火事でも他人事でもなく、ここで起きてもおかしくない事件なのだ。

 日本は現在、1000兆円を超える国債残高がある。これを返済するのは政府である。では政府はどんどん稼がなければならない。その原資は税収であるが、少子高齢化の進む日本では税収増は難しい。そこで増税を考える。しかしこれはかえって経済の停滞を悪化させることになりかねない。学者や評論家やマスメディアの発信者たちだけでなく、国民からの反発も強い。それでは定年の年齢を引き上げてはどうか。すでに個々の企業レベルでは引き上げが行なわれている。しかし高齢労働者が働き手の中心になることは一般には難しく、したがって税収増も一定のレベルにとどまるだろう。そこで移民受け入れが視野に入ってくる。外国人を受け入れ、彼ら彼女らに働いてもらうことで、税収を増やすことができると期待できる…。

 私はこの移民受け入れによる国債の返済については、一人の日本人として申し訳ない思いがする。どうして日本という国の借金を返すのに、海外の人間が駆り出されなければならないのか。本来ならば日本の借金は、日本の政府、日本の国民がその責任を負うべきだと考えるからだ。国債の返済責任を国民が負うなど論外だと考える者も少なくないだろう。しかし私はこれについては、それでも日本で生きている以上は連帯責任であり、その負える大きさに応じて引き受けなければならないと考えている。それはまた、政府が返済できなければ自分の住む根本的な「場所」としての国家が存在しなくなる危険回避というひとつのリアリズムでもある。政府が返すべきだ、それは「国債」という言葉の定義からいって正論であろう。しかしその正論で国家がなくなってしまっては、正論も何もない。

 さて移民の話に戻ろう。今の日本では、いくらオリンピックに乗じたインバウンド消費だのおもてなしだのといったところで、庶民的感覚からすれば外国人が自分たちの生活空間に増えることを快く思わない人間の方が多いのが現実ではないだろうか。そしてこういう排他的な感覚の中から、かつて公民権運動の発端となった黒人女性への差別的な言動が生じたのではなかったか、そう読めるように思えるのだ。すでに中国人労働者はコンビニやファストフード店を中心にしばしば目にするようになっているが、アイデンティティの違いから彼ら彼女らに敵対的に接することは全国のどこでも起こっていないと言えるだろうか。私はそうは思わない。つい昨日もそのような例に遭遇したからだ。仮に日本人と同じように厳しく接したとしても、「自分に厳しいのは自分が日本人ではないからではないか」とアイデンティティと結びついた形で問題を捉えることだってありうるのだ。ましてや日本人よりも厳しく接したならばなおさらであろう。それはどこで起きてもおかしくなく、どこか一カ所で起こればそこから全国へと規模が広がったのが公民権運動ではなかったか。ポイントは排他性である。

 それではこうした読み方で、私たちの何らかの恐怖は取り除かれるだろうか。この教科書の文章を読むだけでは難しいだろう。それは状況認識のきっかけを与えるという程度にとどまる。しかしもしもこういう認識を得られたならば、そこから「公民権運動はどのようにして解決されたのか?」「公民権運動以外にも排他性が契機となって生じた大規模な問題はなかったか?」そして「そうした問題に対して先人たちはどう対処したのか?」とここまで考えを進めていくと、排他性を契機とする問題への対処法が浮かび上がってくる。それは異質なものを視野のうちに収め、深く理解することで受け入れることだ。恐怖のマネジメントがここに完結する。ところでこれは想像力に駆動された「学習」を通じてなされたのであった。

恐怖の原点としての排他性、或いは他者性

 排他性や他者の他者性とは、しばしば恐怖の原点をなすものだ。自らが排他的であることによって、対象は霧に包まれる。そしてまた反対に、対象が霧に包まれているというその不可視性によって、主体は対象を恐怖するというかたちで、排他性と恐怖とは相互に触媒となり、その作用は円環をなしている。そういう意味では一方が他方を生み出す原点であると考えることができる。どちらがより根源的であるかについては、まだ私には判断が下せない。主体のアイデンティティを精神的、或いは身体的に脅かすものを「異質なもの」と認識するある種の機構が生体内に存在し、その認識がはたらけば人は恐怖を覚えるようにできているとすれば、排他性の方が根源的であると考えてみることはできるし、これはありそうなことだとも思う。しかしここには決定的な根拠を欠いていることもまた事実だ。少なくとも私の知っている科学的知識の範囲内で根拠はないと言わなければならない。

 恐怖の原点をなすものについて、その可能性になりうるものを多少ははっきりさせることができた、そしてもし排他性が恐怖の原点であるならば恐怖を解消する手段は学習による再認識(あるいは「差異認識」といってもいいかもしれない。)が有効なのではないかという可能性を見出したという程度にとどまる考察だった。スッキリするほどのものでないのが残念だが、「排他性」ということについての認識を深めていくことで考察が発展しそうだという予感を得ることができたのは収穫といえるかもしれない。排他性ということであれば、妖怪や異人、境界についての研究などが参考になりそうだ。小松和彦『妖怪学新考』*2赤坂憲雄『異人論序説』*3『境界の発生』*4『排除の現象学*5あたりを当たってみるか。

 

*1:

plousia-philodoxee.hatenablog.com

*2:

 

*3:

異人論序説 (ちくま学芸文庫)

異人論序説 (ちくま学芸文庫)

 

 

*4:

境界の発生 (講談社学術文庫)

境界の発生 (講談社学術文庫)

 

 

*5:

排除の現象学 (ちくま学芸文庫)

排除の現象学 (ちくま学芸文庫)