数学の考え方と人間の心

    塾で授業をしていてふと思ったことがある。「方程式に数値を代入する」という考え方は、もともと人間の中に「自分だったらどうか」とか「あのときこうだったら今どうなっていたか」と想像してみる能力があったから生まれたのではないか。逆にいえば、そういう能力に即した形で数学の世界は広がってきたのであって、そもそもそういう能力をもたない生物は数学を生み出し、扱うことはできないのではないか。ただ人間だけが自覚的に数学を使って考える能力をもっているということは、自分の意思を自覚する能力、またそれを元に想像してみる能力があるという、人間の存在の条件とも深く結びついているのではないか。

   そしてそういう自覚的な意志というものが、何らかの形式をもつようになるときに、それは「数学」という形式だけに限らず、「日常的な言葉」(口語や文語)によって一定の形式をもつようになるということも、十分にありうることである。言語と数学とがその根本において互いに結びついているということが、チョムスキーによる生成文法の研究によって明らかになった以上、文学は、まだ人類がそれを見つけることができないでいるだけで、数学との間に対応関係を構築することができるのではないか。具体的には、人々が何気なく使っている言葉の中に含まれる構文や慣用表現を分析することによって、言語と形式論理との対応関係、さらには言語と真実との対応関係(人間の特定の感覚を前提とせずに説明しうるような客観的現実と、人間というフィルターを通して構成された現実との対応関係)を理解することにつながるのではないか。

文学の抽象度と数学の抽象度

   文学における表現の抽象性は、それが極めて微妙なニュアンスをもつところにあり、一方で数学の抽象性は、それが一定の論理形式の中で占める位置によって示される。さてそれでは、いずれかの抽象性が真であって、いずれかは偽であるということはできるだろうか。或いはいずれかの抽象度の方が、他方に勝ってより高いということを決めることはできるだろうか。おそらくいずれも無理な相談だろう。しかしながら、世間では数学の抽象性のみをこれ賛美し、文学の抽象性は大衆の娯楽の対象として調整されたある幅に狭められた「帯域」の内部でのみ評価を得ているにすぎない。

   文学は今や、作家によって表現されたものの抽象性、或いはその可能性の限界においてでなく、もっぱら現実描写への納得感、或いは読者の日常生活の不満ややるせなさ、希望の代弁といった要因ばかりによって評価されている。それらが悪いというのではない。しかし不満ややるせなさや希望といったものは、日々の生活という極めて限定的で具体的なところを起点にしようとも、大きなものへ展開する可能性を持っているにもかかわらず、それらはただ、既に誰かが作り出した借り物の不満ややるせなさや希望という形で表面化しているように思える。それはたとえば「日本人が見失いそうになっている誇り」(普段は否定的に語られながら、都合の良い時だけ持ち出される「国民」意識や「国家」)であるとか、「資本主義の誤謬」(本当は自分が貧しいのが嫌なだけ)であるとか、「あえて積極的に常識を否定してみせる圧倒的なキャラクター」(人は誘惑に弱く、主体性がないために、断言してくれる人間にすがりたいだけ)というように表現できるであろう。人々の生活には今、自分が普段目にしている現実を超えて、その壁紙を剥がした向こう側に広がる景色に対する想像力、今のこの現実とは異なる可能性の限界を見出そうとするゆとりがないのだろうか。それとも、日本人にはこの辺の思索性がなくなってしまったのだろうか。こうした風潮にあっては、人民の記憶*1における文学の果たす役割は、限定的であることを免れない。

*1:先日書いた記事の中で、鶴見俊輔歴史学の生きた課題として指摘したもの。国家の歴史ではなく、人民の歴史を知ることが歴史学の生きた課題である、と。彼の真理観によれば、人は失敗したときに真理へ近づく。つまり失敗した時、その失敗について考えていると、それがある方向を示していることに気が付く。その方角の先に真理がある。だから真理とは方向感覚であると考える、と。そしてそのようにして真理が見出されるのであれば、人は失敗を記憶しなければならない。国家が真理へ近づくには、人民が失敗を記憶することが必要条件であるといえる。