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後ろに誰かがいるという感覚

 ロードバイクでアルバイト先の校舎まで通勤しているとき、途中で前を走る男性がいた。30代後半から40代ほどの年齢だろうか。彼もロードバイクで走っていた。いくつかの交差点を通過したとき、私は彼を追い越して、彼は私の後を走った。私が交差点で止まるたび、すぐ後ろには彼がいることを感じた。それは後ろでブレーキがしたり、息遣いが聞こえてきたり、時には私が振り返ったときに視界に入ったりすることによって確かめられた。

   またいくつかの交差点を通過すると、今度は彼が私を追い越した。レース、というほどのものでもないが、私もなんだか突き放されるのが嫌で、彼の走る速度に合わせて追走した。初めに彼を追い越したとき、私は彼の走る速度を遅いと感じていたが、後ろから追いかけるときにはけっこう早いものだと思いながら走った。漕いでも漕いでも差は縮まらない。彼も後ろに私のいることを知っていて、レースというほどのものでないにせよ、なにかむきになったりしているのだろうか、などと勝手に思ったりもした。

   長距離走において、先頭集団ではトップランナーが周期的に入れ替わることがよくある。トップランナーがいちばん風を受け、背後には他のランナーたちがいることを感じもするために、肉体的にも精神的にも大変である一方、後ろを追走するランナーたちは、風の抵抗も先頭ランナーよりは小さく、先頭を走るときに比べて精神的にも楽な感じがするため、後ろを走っているにもかかわらず、有利なところがあるのだ。「長距離走」という言葉を頭に思い浮かべる時、私はほとんどいつもアラン・シリトー『長距離走者の孤独』*1を連想する。

   思うに誰かの後を付いていくというのは、一般に楽なものだろう。学問の世界にしたって、誰かの業績についてあれこれ語り、あたかもそれが自分の発見であるかのごとく澄まし顔で平然としている人間は山のようにいる。それは自覚的にそうしている場合もあれば、自覚せずに威張っている阿呆もいる。ここで日本という国の人間が西洋の学問の輸入ばかりに神経を使い、未だにそれを続けていながら一向に自律の気配を見せず、それでいてそうした輸入に努める連中が日本人の主体性のなさを批判してみせるという滑稽な光景が広がっていることについては、特に何も語らない。

   ロードバイクで走っているとき、私も確かに、誰かの後ろを走っているときの方が、後ろから誰かに追いかけられているときよりも楽だと感じている。しかしこうも思うのだ。つまり、誰かの後ろを走っているときよりも、一人きりで走っているときの方が更に楽であると。それは自分以外に誰もいないのだという孤独感が、ある種の心地よさを感じさせるのか、或いは都会の中で一人になる時間があまりに少ないためか、それとも前にも後ろにも自転車走者がおらず、ただ一人私だけで車道の左隅をペダルを漕いで走っているときだけは、現実の重たいようで薄っぺらい人間関係や、ソーシャルメディア上の重たく執拗な人間関係のしがらみから解放されて、自由な気分でいられるとでも思っているのだろうか。

 少し前に「隠喩としての鉄道或いは自転車」*2という記事を書いた。そこで書いたことだが、ロードバイクでの22kmに及ぶ通勤にも徐々に慣れてきて、ロードバイクでの移動が開く世界とでも呼ぶべきものが広がってきたのかもしれない。

 

*1:

長距離走者の孤独 (新潮文庫)

長距離走者の孤独 (新潮文庫)

 

 

*2:

plousia-philodoxee.hatenablog.com