あっちとこっちをつなぐ

 次から次へと新しい記事や本を読むということが自分にとってはどんな意味をもっているのかについて、最寄り駅から自宅に戻る途中で、特にセブンイレブンの近くを歩きながら考えたことについて書こうと思う。

 

 新しい言葉や言説を読むと、それがきっかけとなって自分がすでに学んだことを連想しながらものを考える。これは脳がそういう風にできている以上、人間なら誰もがそうなのではないかと思われる。あっちのニューロンとこっちのニューロンシナプスでつなぐ。それを繰り返すうちにそのつながり(回路)は強化され、電気が走りやすくなる。電気が走りやすくなるとパッとそれが浮かぶようになる。大事なこと、本質的なこと、重要なことは、回路の強化を通じて学習される…。どんな天才、ノーベル賞受賞者、著名な作家の思考であれ、彼らが私と同じ人間である限り、そこは同じなのだ。そのような人々と私が異なるのは、ある回路が作られるまでに要する時間の長さだけだ。それが早い人というのは、直観に優れた人とか、ひらめきの優れた人だとか呼ばれる。

 このように「人間ならば脳の基本的な構造はみんな同じ」*1ということは、私をどこか安心させると同時に、人間がこのような生理学的な条件のもとでしかものを考えられないということによって、どうしても考えられないことというのが生まれるのではないかとも思う。人間である以上、こういう風に考えることはできない、という考え方があるのではないか、と。「生理学的な条件」と書いたが、それはこういう言い方もできる。つまり思考をめぐる生理上の構造的制約、と。「構造」というところがポイントである。

 

言語論との接続

 さて少し脱線するようだが、こうした生理学的な条件のもとで展開される人間の思考を、言語論とつなげて考えてみる。私たちは言語を通してしか自己を表現することができないとするならば、言語というものが、私たちが自分の考えを表現する道具として完璧かどうかということが気になる。もし完璧でないなら、どうしても言葉では表現しきれないものが残ってしまう。これは日常的な言い方で表すと、歌の歌詞などでたまに目にする「言葉じゃうまく伝わらない」というやつだ。だとすると言葉など使わずに、気持ちを直接伝えられた方がいいじゃないかという風に考えたくなる。これは簡単にいえばテレパシーで、言葉を使わずに頭の中のイメージを他者と直接やりとりできるとしたら、言葉を使うことで失われてしまう、或いは変わってしまう、頭の中のイメージを他者に対して誤解なく正確に伝えることができるかもしれない。そういう可能性に人間は憧れることがある。*2私たちがものを考えるときには、言語が不可欠であるが、言語が人間の思考を正確に表現する道具と言える保証などどこにもない。言語によってものを考えることによって、人間の思考はある程度制約されることになるかもしれない。これは既に述べた脳の抱える生理学的な条件による制約とはまた別の制約である。この言語による思考の制約というのは、構造主義に絡めて言えば、「意味によって構造が規定されるのではなく、構造によって意味が規定される」とするソシュールの言語観*3に対応する。このように構造によって中身が決まるという点では、大脳における思考も言葉の意味も同じだと言える。

 それではこうした生理学的、或いは言語的制約というものを克服できる、超えていけるものはないのだろうか。人間は大脳や言葉によってある範囲に閉じ込められて、その外へ出ることはできないままなのだろうか。その可能性をもつものは人工知能、特に「弱いAI」ではないかと私は思っている。人工知能について最近いくつか記事*4で取り上げた中で、「弱いAI」(weak AI)について書いたものがある。この弱いAIの研究によって、人間であれば考えることができないようなしかたでものを考える知性とでもいうべきものが生まれるのではないかと私は考えている。それは「強いAI」が掲げる目標である「人間の知性を再現すること」とはまた違う種類の魅力をもっている。ある対象があって、それを一定の手順で「処理」*5していくときに、人間とは違った処理のしかたがあるのではないか。もちろんAIが利用するアルゴリズムを書き込むのは人間である。AIの起動力は人間の思考によって支えられている。しかしAIは機械学習を経てオリジナルのアルゴリズムを改変、改善していく。するとやがて、オリジナルのアルゴリズムとは異なる新しいアルゴリズムで記号を処理するようになる段階がやってくるのではないか。そのとき、もはや私たちが書き込んだアルゴリズムに象徴されるような人間らしい思考法と、AIが遂に獲得したアルゴリズムとが異質なものでないなどと誰が言えようか。

私自身の思考に戻って

 すでに自分の頭の中にあるものと、新しいものとがどのようにつながるのか。一見新しく見えるものが、すでに自分が触れたことのあるものと実は同じであるということにどうやって気付くか。そのような仕方で自分は新しいものに触れ、そこから自分の知識を整理し直し、或いは捉え直し、考えを洗練させていくと同時に絶えず考える能力を錆びつかせないようにする。

 スティーブ・ジョブズ「後になってみなければどの点とどの点がつながるのかはわからない」ということをスタンフォード大学の卒業式の有名なスピーチ*6で言ったことが思い出される。つまり自分が触れる新しいものが、すでに自分の経験したことや学習したこと、覚えたこととどのようにつながるのかは、前もってわからない、と。それでも色々な新しいもの、自分が「これだ!」(This is it!)と思ったものに触れ続けることによって、自分の脳内のネットワークは強化され、発想する力やひらめく力が高まるのであれば、それでいいと思う。

 

 それこそMITメディアラボの「学びよりも実践」というモットーに則って進んでいくべきなんだろう。この言葉を知ったのはMITメディアラボの所長である伊藤穣一さんが数名の人物の記事を編集した『ネットで進化する人類』*7を読んだのがきっかけだった。同書から少し引用しよう。

 僕は、インターネットを前提に設計されてきたわけではないメディアラボの構造を、インターネット的に(よりオープンで変化にとんだイノベーションに対応する構造に)作り替えようと企図した。

 具体的には、次のようなテーマを提示した。

 

  • メディアラボをコンテナからプラットフォームにすることは可能か?
  • 今までバラバラに作業してきたアーティストとデザイナー、科学者と技術者の垣根を取り払うことはできるか?
  • どうすれば従来の学問に縛られず、他分野にまたがる学びをもっと切り開くことができるか?
  • メディアラボは世の中やMITのために、いかにして新しい学びやクリエイティビティに対して支援を行い、将来の研究のモデルと成り得るか?
  • メディアラボが実践する「学びより実践」の手法を教育界全般にどう広めるか?
(同書p.19, 20より)

 「学びより実践」という言葉は、「いかにもプラグマティズムを生んだアメリカらしい精神が宿る」といった月並みな解釈ではなく、学ぶことよりも実践する方が実は多くを学ぶことができるという風に解釈できると私は考えたい。

   ものの考え方ということについて、「ものの考え方は人それぞれ異なる」などという雑な書き方をするのはどうにも耐え難いものを感じるので、私なりに書くと、私は他者の考えや作品に触れることで自分の思考を深めていくタイプの人間で、そういう意味では月並みの、何か人と違ったところのある変人奇人タイプの天才ではない。ボロボロのTシャツを着て、誰かとのコミュニケーションはひどく下手で、親指の爪をかじりながら中空をぼんやりと眺め、急に飛び上がったかと思うとおもむろに手近な紙をひっつかんで難解な数式を書きなぐり始める…というような人間からは、私はほど遠いところにいる。

私の方法

 そんな月並みな私が、それでも自分なりにものを考えたいと思うときには、他者が書いた本を読み、それを通して考えるという方法をとる。時折一人になって本からも離れてぼんやりすることもあるが、またしばらくすると何かの本に戻ってきて、考えを進めたり変えたりする。巨人の肩に乗って、或いは先人の生み出した船に乗って、私は自分なりに何事かを考えていると思い込みながら、その実私のまだ知らない先人が考えたことの焼き直しにすぎない場合もある。或いはもっとひどい場合には、私のすでに知っている誰かの考えと、実はその本質は同じであることに当の私自身気が付かないで涼しげな顔をしていることもある。

 私が私なりにものを考えられるようになったとき、私は初めて自分の言葉を持つのだろう。それは私がようやく自己表出を実現した瞬間であるとも言えるかもしれない。それはもちろん、私の語ること全てが私の造語であるというような意味ではなくて、すでに存在する言葉を用いながらも、それでいて他の誰もそのように書いたり語ったりしたことはなかったというようなしかたで書いたり語ったりするということだ。言語とは、ソシュールの言語観に即して、語のネットワーク構造が作り出す意味の織物であるとするならば、私が私なりの考えを持つとは、私なりに語のネットワークを作り出すということを指すのだろう。すでに誰かが築き上げた体系は、その体系なりの語のネットワーク構造を持っている。そのネットワークの中でそれぞれの語は異なるポジションをもっていて、そのポジションの違いによって、それぞれの語(シニフィアン)が意味するものの内実(シニフィエ)が規定される。どんな思想も学説もそういう風に捉えることができる。そうした「個人由来の語のネットワーク=思想」が多くの人間に受け入れられた場合、常識とかパラダイムなどと呼ばれたりもするだろう。

 そして今日もまた、私は一人、渋谷のスターバックス埴谷雄高埴谷雄高文学論集』*8を読みながら、文学についての彼の論考を通して自分の考えを探し求めている。

*1:もちろん「脳梁」の大きさが男女で異なるというような違いはある。

*2:「テレパシー」に憧れるのは、言葉というものが不完全なものであるということを私たちが日常的に感じていることの表れなのかもしれないと思うことがある。「テレパシー」は日本語ではももちろんないが、それでも日本人もまたテレパシーに憧れる。それは言語の違いを超えて、或いはそれぞれの言語を規定する文法・構造の違いを超えて、言語とは私たちが自らの意志や内面を表現する手段として完璧ではないことの表れなのかもしれない。これは「言語表現の一般不可能性」とでもいうべきものだ。

*3:もう少し別の言い方、ソシュール自身の言葉に即して言えば、「ラングはパロールを規定する」という風になるだろう。

*4:

plousia-philodoxee.hatenablog.com

plousia-philodoxee.hatenablog.com

plousia-philodoxee.hatenablog.com

*5:「処理」というとなんだか無味乾燥な、或いは事務的な響きを覚えるかもしれないが、どんな詩的表現も文学的表現も、作者の考えや思いを言語という「装置」を使って一定の手順で処理することで作られたものである。

*6:


スティーブ・ジョブス スタンフォード大学卒業式辞 日本語字幕版 - YouTube

*7:

 

*8:

埴谷雄高文学論集 埴谷雄高評論選書3 (講談社文芸文庫)

埴谷雄高文学論集 埴谷雄高評論選書3 (講談社文芸文庫)