読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

認証技術と私の意識と身体

26歳 テクノロジー 倫理学 哲学 思想 日常

 Googleで私が私のiPhoneで「タミル語」と検索するのと、別の人間がその人のiPhoneで同じ語句を検索するとき、その2つは違うものだとみなされる。それぞれの検索履歴上に「タミル語で検索し、これこれのページを見た」という記録が残り、そこから先の検索でそれがどう活かされるかも、人によって違ってくる。このように同一の入力でも「誰がそれを入力したか」をちゃんと識別できるのは、「端末は一人一台」という常識があって、自分の端末を使うことで他の端末と区別がつくからである。もし端末にこだわらず、どの端末からでもいいから自分の入力を他の個人による入力と区別したいならば、「アカウント」によって識別を行う必要がある。これが「クラウドを使う」ということのの要点の一つだ。自分と自分のアカウントとの関係については先日も記事を書いた。*1

 

 クラウドを本当に活用するならば、こうした端末の常識にとらわれる必要はないと私は思う。例えば自分のスマホを持っていなくて、メールを確認したいとき、電車の中にいるすぐ隣の見知らぬ誰かに端末を借り、その端末から自分のアカウントにログインして受信ボックスを確認することができる。或いは見知らぬ誰かもまたスマホを持っていなくて、パソコンを持っていたとしても、そのパソコンを使って自分のアカウントにログインすれば自分の情報にアクセスできる。

 

 これに関して、たとえばイーライ・パリサーの『閉じこもるインターネット』*2における「パーソナライゼーション」*3の議論で、これはそれなりの規模の議論を生み、その後Googleはパーソナライズの度合いを緩めた。そんなGoogleが最近は「RankBrain」という人工知能ベースのアルゴリズムを同社の検索技術の一部で利用していることが海外メディアのブルームバーグを発端として報じられた。このパーソナライゼーションの議論にしても、「同一の入力に対しても入力した個人が異なることを区別できる」という前提があるからこそ生まれてきたわけで、個人が一人一人持っている「アカウント」によって区別をしているのである。

 そしてアカウントの識別には「認証技術」が対応する。認証が正常に機能しなければどんなことが起こるか。例えば私の端末で、他の誰かが勝手にメールを送るということが起きる。ここに私はある種の気持ち悪さを感じる。それは何によって生まれているのかと考えてみると、それは私の身体が他者の意志によって脅かされているというところにあるのではないか。私の身体は私のものだ、そしてそれは私だけのものだから、他の誰かによってコントロールされたくない。そんな感覚があるのではないか。

 

 

 これだけクラウドが普及した現在でも「端末は一人一台」の常識が消えるそぶりを見せないのは、スマホやパソコン、タブレットなどの「端末」を自分の身体の延長線上に捉えるデバイス観が潜んでいるからではないか。ある人間の意志によってコントロールされるはずだったデバイスが、別の誰かの意志が入り込むというかたちで、デバイスの中で「意志の干渉」が起こる。そんなことが起こらないようにするには、認証技術によって個人を正確に判別し、それぞれの意志とアクションとを「混線」させないように管理できることがどうしても必要になる。このようにして、デバイスを通じた「身体の拡張」がインターネット(あるいはクラウド)において生じる時には、認証技術がその土台にあるという状況が見えてくる。

 

自分の身体が自分の所有物であり、その自分の身体の延長線上にあるデバイスもまた自分の所有物であるから、他人がそれを使うことは許されない…。こういう価値観が変わらない限り、クラウドというシステムのポテンシャルが最大化されることはないのではないか。テクノロジーはそのときそのときの人間の価値観と不可分ではない。テクノロジー自体は中立なものだとしても、それを巡る人間の価値観がテクノロジーの可能性を制約することもしばしばだ。 

 

*1:

plousia-philodoxee.hatenablog.com

*2:

閉じこもるインターネット――グーグル・パーソナライズ・民主主義

閉じこもるインターネット――グーグル・パーソナライズ・民主主義

 

 

*3:Googleで何かを検索したとき、同じ検索語句でも個人によって表示される検索結果が異なるということが指摘される。