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全体性と個別性について

   ある学問で言われているからといって、あえて自分の意思に反してその説かれている通りに行動したり考えたりする必要はない。自分がAと思うのならば、学問的にはBであるとされていてもAと答えるのが本当であろうと思う。自分で考えた結果が、学問の説くところと結果的に一致するというのであればBと答えるのもいいが、初めから学問に適合するようにわざとそのように考える必要はない。たとえば経済学を学んだからといって、経済学で説明がつくように考える必要はない。そんな風に考えなくても、こう考えればこうでしょという風に判断することもまた可なりである。そしてその方が正しい判断であったと学問の世界で後からわかる、ということもよくあることなのだ。

 

   先日記事*1で紹介したバリー・シュワルツは、その紹介記事*2の中で、社会科学が人間の本性にまで影響を及ぼすと書いている。その「影響を及ぼす」ということの意味はおそらく次のようなものだろう。つまり、たとえば経済学なり社会学なりのある学説に基づいて設計された制度が、個人のものの考え方を規定する「環境要因」として機能するということがある、と。なるほどそのようなことは確かにあるかもしれない。ある人間の本性は「遺伝」という先天的な要因だけで全て決まるわけではなく、教育や人間関係、所属する集団の社会におけるポジションなどの「環境」によって、つまり後天的な要因も重要な役割を果たしている。その「環境」の中に制度という社会的構築物も含まれるならば、社会科学における理論は「制度」を媒介にして人間の本性に影響を及ぼすのである、と。

 しかし自覚的にものを考えられる人間ならば、或いは人間が人間らしくいられるならば、必ずしもそういう風になるとは限らない。人間の意志は、学問の説くところと自分自身の感覚や理性とを天秤にかけ、そのどちらによって決断するかを自覚的に選択する能力をもっている。もちろんそれは初めから備わったものではなく、努力が必要だろう。こうした人間観というものは、人間は初めから人間として生まれてくるのではなく、その主体性によって人間になるのだとする人間観に近い。

 

統計学の限界

統計学には「記述統計学「推測統計学という2つの立場がある。よく「統計学」といわれるときには後者を念頭に置いている場合が多いので、ここでもこの「推測統計学」を前提に議論を進める。推測統計学とは、推測のための統計学ということで、これまでに起こったことに関するデータ、或いは母集団全体の傾向を母集団の一部の集団から推測しようとする学問である。この推測統計学が成り立つ、もう少し別の言い方をすれば妥当性をもつためにはいろいろな「しかけ」が必要になるのだが、その中に大数の法則や独立反復試行における積の法則などが含まれる。それが有効な領域もあるのだが、この推測統計学を人間に適用する場合には、しばしばおかしなことが起こる。それは例えば次のように、やや風刺的に表現することができる。

 

100人のうち80人が、『我々は本当に人間だろうか』という質問に「否」と答えた。だから人間は統計的に、実は人間ではないのだ。

 

 このようにして、統計学は何らかの主張を作っている。「多数派」の結果を「全体」の結果とみなす、「悪しき多数派主義」にその根を持っている。私にとっては、統計学とは、あくまでも「全体の傾向」をつかむことに適した手段にすぎず、それを元に個別の人間を論じることは論外だと思う。あるカウンセラーが「くせっ毛の女性は統計的に不幸になりやすいので、あなたはこれからもカウンセリングが必要でしょう」などと言ったらどうだろう。事実そういう傾向があるからといって、目の前の人間の個別性に向き合わない人間を、私は信用しない。そういう意味では統計学それ自体が悪いというよりも、その使い方に注意が必要だというべきかもしれない。統計の結果は「研究」といういかめしい表現を付されて記事になり、誰かが自分の主張を根拠付ける「〜ということはすでに研究で示されている」構文によって利用され、「いいね!」がついたり、リツイートされたり、ブックマークされたりして、あたかもその結果が真理であるかのごとく社会に広まっていく。20人の存在など省みる人間はわずかだろう。なんという思索の貧しさであろうかと思ってしまう。

 ではもしも、自分が80人の側でなく20人の側にいると思うならば、その個人はどうすべきか。その個人は「自分は人間だ」と信じればいい。そう判断するための主体性は、個々人の側に最後まで残されているし、たとえ統計学といえどもそれを奪うことはできない。わざわざその意思に反して、その主体性を滅却して「我々は、実は人間ではないかもしれない」という主張に従う理由はない。統計学は、ある個人が80人の側にいるのか、それとも20人の側にいるのかを判定する方法を示すことはできない。

 

科学は文学の対極ではなく、その一部として存在している

 気づく人は気づく…はず*3。さて、圧倒的な数の個別性を抱えた集団を、そのままでは制御しきれないという制約の上に生まれたのが統計学であると考えるならば、個別性を真正面から扱う文学には、最後まで重要な意義が残されている。私たちが個別性を尊重する意思を持ち続ける限りは、私たちの中から文学が消えてしまうことはないのではないか。文学の価値が疑われる風潮があるが、文学によって示される事柄が、その時代の最先端の科学とされている領域の研究の持つ意味と同等のことを示している、或いは場合によってはそれよりも遥かに先を示しているということもある。梶井基次郎宮沢賢治によって示された「宇宙観」というべきものは、現代の理論物理学の最先端をもってしても十分に説明しつくせない、宇宙の真実を照らし出しているようなところがあるのではないか。

 

 個別性と、それから普遍性とを求めることが人間の必然であるといえるならば、文学の存続について悲観的になることはないのかもしれない。その必然ゆえに、いくらかの希望があるのかもしれない。私は文学において作家が感覚した現実、捉えた何ものかが、究極的にはフィクションたりえず、この宇宙の中の何かに対応するのではないかと考える。そういうなにものかが、文学とは異なるしかたでもって掴まれるものによって軽んじられてしまうのは、あまりに惜しい。

 

と、こんな風に書いていると『部分と全体』*4『全体性と無限』*5などを読みたくなってきた。


【反省としての追記】

本文自体を訂正してもよかったのだろうが、「自分がした間違いを消しゴムで消しても、間違い自体は消えたことにならない。だから消しゴムは使うな。間違いを残して記録とし、それに向き合え。」と普段生徒に言っている手前、私もその流儀に倣うことにする。本文中、「統計学それ自体が誤りだ」と読めるような記述をした箇所がある。私の認識では「統計学で踏み込めるのはどこまでか、そして何をどの様に示し、どこからは踏み込むべきでないか」ということについて書こうと思っての記述だったが、とある方からの指摘を頂き、記述が正確でなかったと感じた。統計学の結果をどう解釈するかという、解釈の問題を論じていながら、その論じるところの当の本人が「解釈」に関するミスを犯したのでは始末が悪い。なんとも滑稽な事態を晒してしまった。と、自戒を込めてここでは記しておこうと思う。

 

*1: 

plousia-philodoxee.hatenablog.com

*2:

qz.com

*3:村上春樹ノルウェイの森』中の一文。「死は生の対極でなく、その一部として存在している」をもじったもの。

*4:

部分と全体―私の生涯の偉大な出会いと対話

部分と全体―私の生涯の偉大な出会いと対話

 

 

*5:

全体性と無限 (上) (岩波文庫)

全体性と無限 (上) (岩波文庫)

 
全体性と無限〈下〉 (岩波文庫)

全体性と無限〈下〉 (岩波文庫)