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情報との向き合い方について

 情報の時代だとか情報爆発などと言われる。私個人についていえば、フィード購読アプリFeedlyを使って、毎日色々なメディアの記事をチェックしている。精読するのはごく少数の記事に限られるけれども、それでも色々な記事を読むことになる。新聞を隅から隅まで読むのと同じくらいの分量だろうと思う。情報と向き合うとき、自分が何かを考えていて、それに関係しそうなことを自分で調べ、それをもとにまた考えを進めるという風にして向き合うしかたと、特に事前に何かを考えているわけではない状態で、色々なところからやってくる情報にいきなり触れるというしかたの2つがある。ニュースアプリや新聞、テレビは後者の方で使われる。こうした後者の向き合い方というのは、しばしば「受動的だ」とか「押しつけられている」とか「21世紀にもなって一方行のメディアなんて…」という言われ方をする。私はこうした言われ方には懐疑的だ。ものを考えるとき、人間が受動的になる。そしてそこにこそメディアの価値があると私は考える。メディアは人間が受動的になるきっかけを与えるのだ。これについて、ジル・ドゥルーズを引用する。

思考において始原的であるもの、それは不法侵入であり、暴力であり、それはまた敵であって、何ものも愛知(哲学)を仮定せず、一切は嫌知から出発するのだ

(『差異と反復(上)』(河出文庫)財津理訳*1p.372)

つまり、自分の外から突然何かが不法侵入のようにやってきて、人間は初めてものを考えることができるということだ。そういう不法侵入を受け付けず、ただ放っておいても、それだけでは人間は考えるようにはならないかもしれない。出会わなければ、考えない。能動的に、或いは自覚的になされるものが思考であると考えられているがそうではない。受動的になってしまうからこそ、そこから思考が始まるのだ。

 

 古代ギリシャは対話によって成り立っていた。対話とは、あらかじめ何について話すかが決まっている。とりあえずの出発点というのが対話する二人の間に共有され、そこから対話が始まる。もちろん話の途中で脱線することもあるが、あるテーマが通奏低音のように存在し続け、それについて意見が交わされ、情報が飛び交い、議論は進んでいく。その中で対話する者の思考は深まっていく。通奏低音はしかし、対話する相手によって変化することもある。ああ、これについて話そうと思っていたけれども、そのためにはむしろこっちを話さなければならないのか、と気付かされるのだ。そこに思考があり、不法侵入がある。或いは敵がある、ともいえる。

 

 私たちが他人の意見を聞くのは、何か聞きたいことがすでに自分の中にあるからだ。しかしそれは、いつも自分で気付いているとは限らない。自覚的でない場合もある。相手が語るのに耳を傾けているうちに、「ああ自分はこういうことを聞こうとしていたのか」と気付かされることもある。そこが厄介なところだ。それではメディアから流れてくる情報を受け取ることは、「他人の意見を聞く」ということと違うだろうか。違う、と言わなければならない。確かに思考を促さないような情報もあるだろう。しかしそういう情報の侵入、不法侵入自体を遮断すると、思考は広がらないのではないか。意識的に、自覚的になされる情報収集とは、ただの「追認」にすぎないのではないか。すでに自分の中にあるものを追認することと思考とを混同してはならない。

   情報に対してある程度受動的であっても構わないと私は思う。いつもいつも自分の自覚的な問題意識に沿って情報に触れるだけでいたら、いつまで経っても広がらない視野もある。