蛙の自我とはなんだろう

 入浴中、蛙の自我について考えていた。「ニュートリノ」の自我について、埴谷雄高が考えていた*1のに触発されたのだろう。彼は考えた。たとえば人間が、「自分が自分であること」(自我)を意識するのは、何かにぶつかるからだ。何かにぶつかれば「ああ、今ぶつかったものは自分とは違うものだ。自分は『こちら側』にあって、『あちら側』にあるのは自分とは違う何かだ」という風にして、自分がどこからどこまでかということに気が付き、それをもとにして自我ができていく。それでは何ものにもぶつからないニュートリノは、どうやって自分に気がつくのか。どんな自我を持っているのか。

 埴谷雄高に限らない。以前「言葉以前の世界にどう触れるか」*2という記事で触れたが、苫米地英人さんもまた、真空管アンプを説明するために「電子」になりきるという仕方で、「電子の自我」とでも呼ぶべきものを意識している。

 蛙は幼い頃は蛙ではない。オタマジャクシだ。まだ手足もなく、体も小さく、何より水の中で、人知れず生きている。それが成長し、蛙になると、手足もあり、体も大きくなり、陸上で生きるようになる。人に見つかりやすくもなる。さてそれではオタマジャクシが蛙になったとき、蛙は自分についてどう思っているのだろう。「自分は自分だ。幼い頃と比べれば、手足が生え、体は色も大きさも形も大きく変わってしまい、生きる場所も水の中から陸の上に変わってしまったが、それでも自分は自分だ。」とおそらくは思っているだろう。

 蛙は幼い頃と随分違う姿に変わってしまっても、自分を見失うことはない。これは単なる文学的な表現でなく、事実だ。先日「アカウントと自分」という記事を書いた。*3人間はふだんの生活の中で、色々なサービスのアカウントにログインしている。そしてその度に、「自分は他の誰かでなく、自分である」ということを証明させられる。そんな些細な確認作業を頻繁に行っていても、ちょっとしたことで簡単に自分を見失ってしまう人が多い。そして「自分探し」の旅に出かけたり、綺麗な写真とポエムが散りばめられた「高橋歩的な本」を読み始めたりする。或いはもっと違った読書をしたり、誰かに相談したり、中には哲学を始める人も、ごく少ないかもしれないが、いるだろう。

 そこまでしなければ保てないとは、いったいどれほど私たち人間の自我はあやふやなのだろうかと思う。それは言葉を使うせいか。情報があふれているせいか。あるいは自分の頭でものを考えることを教えることができず、ただ一方的に決まった内容の知識を押し付けるだけの退屈な教育のせいか。あるいは社会の中で自分の居場所や意義を見いだしにくい状況に置かれている非正規雇用の増加する経済の問題か。「自我」という言葉を生み出し、それをもっとも意識していると思われる私たち人間の自我が、実は一番もろいというのは、いったいどういう皮肉であろうか。

 「自分が自分であること」をちゃんとわかっていることを示すような脳の状態というものがあるとしたら、興味深い。今の私には蛙の自我が崩壊したかどうかがわからない。しかし仮に崩壊したら、それはきっと蛙にとっては大変なことだと思う。人間が成長しても、外見は蛙ほど大きく変化はしない。それでも人間は「自分って何?」と自我を問い直すことがなんどもある。何が自分らしさを示すものなのか、自分はずっと自分のままでいられるのか…。程度や頻度の差はあれ、人間はそういうことを何かにつけ気にしながら生きている。

 どうして人間は蛙よりも自我があやふやなのか。それは人間には人工的に作られた環境から影響を受けて変化していくという側面があるからだろう。蛙は、自分たちを取り巻く環境を変化させ、またそれによって自分も変化するなどということはない。この世界に初めからある自然環境に適応することに専念するばかりだ。人間は「法」や「制度」などの機構を生み出し、自然環境の上に人工的な環境を重ねて作り上げ、それによって環境を自らにとってより過ごしやすいものに変えてきた。それは「文明の進歩」などと呼ばれることもあるが、この環境改変には人間自体を変化させるという効果もある。

 蛙の自我を考えることで、人間の自我についての理解を自分なりに深めることができたように思う。