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IoTとジェスチャーと身体

26歳 テクノロジー 内省 哲学 思想 情報科学 日常 東京

 Feedlyでこんな記事を見つけた。鍵を鍵穴に差し込んで回すとそれがスイッチになってTwitterでツイートできたり、Uberでタクシーが呼べたり、とAPI連携を利用していろいろなことができるようになるというデバイス。IFTTTやmyThingsなどとも連携できるらしい。

internet.watch.impress.co.jp

 こういうデバイスはこれからもいろいろ出てくるだろう。これまではウェブ上で何かをやるとしたら、私たちが身体をつかう動作のバリエーションは少なかった。キーボードでキーを叩く。スマホで画面をタップする。或いはスタイラス…。Hackeyはそこに新しいジェスチャーとして「鍵を入れてひねる」という動作のほかに、「ボタンを押す」というのを提示する。こういうデバイスが増えていくと、それに応じて私たちが身の回りの道具を操作したり、あるいはウェブ上でいろいろやるというときに、ジェスチャーの種類も増えていく。それはまるで、魔法使いが一本の杖をいろいろな仕方で振ることによって、周りの様々なものを自在に操るようなものだ。

 冷蔵庫や洗濯機やエアコンや電子レンジ、テレビなど、様々なデバイスが自分の周りには広がっている。こういってよければ、それはもう花畑のようなものだ。それらのデバイスの、様々な操作を、自分のジェスチャーに一対一に対応させたらどうなるか。私たちの国では魔法使いの伝統はないが、日本人はついに、魔法使いとはかくなるものかということを実感することになるかもしれない。魔法使いの伝統があるヨーロッパの人々と同様に。そしてこのようにして、私たちの身体とテクノロジーの境界線は曖昧になっていく。

 マーシャル・マクルーハン「テクノロジーは身体の器官を拡張したものである」と書いた。しかしHackeyを使うことによって拡張されるものは、目や耳や口のような、私たち人間のもつ何らかの器官ではない。それとは違う様々な「処理」の手順が、私たちの身体の動きと紐づけられていく。

私たちの日常から「画面」を追放する

 これはゴールデン・クリシュナが書いた『さよならインターフェース-脱「画面」の思考法』*1の発想とも通じるものであるといえる。同書では、たとえば車の鍵をスマホを使って開ける時に、

①まずスマホをポケットから取り出し

②画面のロックを解除し

③必要なアプリを開き

④ロックを解除し

スマホをしまい

⑥ドアを開ける

(※ちなみにこの5段階の手順ですら、同書に紹介されている手順をいくつか削っている。)

という手順に「そんなに複雑な手順を踏まなくても、普通に鍵を差し込んで開けた方が早いじゃん」とツッコミを入れる。そしてそこから次々と、「まずは画面を作ること」を考える「UI=画面=UX」の常識に対し、バッサリと「ノー」を連発する。 

  照明の方を向いて手を上げると照明が点き、手を下ろすと消える。パソコンを指さすとパソコンが起動する。首を傾けるとオンライン上の契約がキャンセルされる…。人間の特定のジェスチャーによって操作できる範囲が拡大していくと、社会はどのように変わっていくだろう。IoTやセンサに関する記事の多くは、「このデバイスやサービスによって、新たにこういうことができるようになりました」という報告レポートであって、「それが登場したことによって私たちの世界はどう変わっていくのか」について語るものがほとんどなくてつまらない。

情報をめぐるインターフェースは洗練されているか

 IoTやM2Mのように、「デバイス」の領域では、APIなどのしくみを使った処理が可能な領域が拡大していく一方で、「情報」の領域では、まだまだその処理が洗練されているようには見えない。冒頭で紹介した記事が目に留まったのは、それが照明やエアコンや自宅の鍵といった、身の回りの「デバイス」ではなくて、Twitterでツイートするとかネットショッピングをするといった、ネット上の色々な「情報処理」の方を操作できるようになるという内容だったからということもある。特定の処理を実行するために、従来であれば人間が検索を実行し、その結果をもとに考え、実行するというように、必要な情報を人間が自分で集めてきて、一定の順番でそれらを組み合わせて実行する必要があったが、情報処理の方法が洗練されていけば、人間自身がわざわざ情報を組み合わせる必要もなくなるのではないか。情報処理は自動化され、そこには人間の思考が介在しなくなっていく。そういう世界において、「情報」とはどんな意味を持つだろう。それは今とは根本的に異なってくるのではないか。

  人間が外にあるものをコントロールしようとするとき、たいていの場合、技術を使いこなすための「スキル」として、一定の手順に標準化・体系化されたなんらかの「ジェスチャー」を体得する必要があった。自転車の乗り方や車の運転、キーボードのタイプやコピー機の使い方など、多くの場合、何かを使いこなすためのジェスチャーというのは人間にとって不自然なものだ。パソコンがなければ、私は膝の上で指をあちこちへせわしなく移動させることはないだろう。そしてそういうジェスチャーが不自然なものであったために、少なくない人間は技術を習得することを拒み、自分がコントロールできるものの範囲を広げられないでいた。現代でもパソコンを使うことやプログラミングに習熟しない人間が少なくないのは、それを使ってあれこれするための一定の「ジェスチャー」を体得することを億劫に感じる人間が多いからなのではないか。

 一般に技術が作動するときには、

人間の意志→意志に紐付けされた特定のジェスチャーを通じた入力→意志された出力(アクション)

という順序で進む。これは情報処理の場合も、IoTでも同様だ。そしてここで重要なのは、どんなアクションでもまずはじめに「人間の意志」がなければ実行されることはないということだ。もし「人間の意志」をすっ飛ばしてアクションを行うようになると、状況はずいぶん変わってくる。それは熱いものに触れて思わず手を引っ込めるとか、食べ物を口に入れると勝手に唾液が出るといった「反射」に近い。

 

 技術の「反射」的な作動は、アクションの引き金になる「知覚」が人間の身体のすぐ近く、或いは手元にあるという意味で、M2Mとは微妙に異なることに注意が必要だと考える。工作機械による生産や金融市場におけるアルゴリズムを用いたHFT*2などなどの領域ではどんどん進んでいる。動作と動作の間に誰かの意志が入り込む余地はない。例えば私の場合はIFTTT「イフト」と呼ばれている)というアプリを使っている。特定の範囲内に入ったら特定の相手に自動でTwitterのダイレクトメッセージを送ることができるという「レシピ」を設定し、仕事から帰るとき、最寄駅についたら彼女に知らせられるようにしている。そこではいちいち自分が「あ、忘れないように彼女に知らせなければ」などと思う必要はない。私の意志なくしてIFTTTが自動でやってくれる。私の代わりにGPSという感覚器官(センサー)があって、中枢神経(私の脳内の意志)を経ずに運動神経(Twitterというアプリでの特定の動作)に信号が送られ、なんらかのアクションが実行される。まさに反射である。

 それでは私の意志をすっ飛ばした、こうした反射的な情報処理というのは洗練されていると言えるのだろうか。処理するものの内容によるが、基本的には洗練されていると私は思う。いちいち「意志」しなければ実行できないのは面倒なのだ。ここでは技術が動作するときの順序に関する、先ほどの「基本認識」へのこだわりを捨てることが必要になる。すべての動作で意志を必要とする必要はない、場合によってはそれをすっ飛ばしてしまおうというわけだ。

 反射的な情報処理は、Hackeyのようなデバイスを通じての情報処理よりもさらに先を行く。Hackeyでは鍵穴に差し込んで回すというジェスチャーが必要だったから、そこにはどうしても人間の意志を伴う。HackeyはIFTTTとも連携できるが、私に言わせればIFTTTのすごいところはこの「意志をすっとばして作動する」というところにある。だからHackeyは、IFTTTによる動作に人間の意志をくっつける働きをしていることになる。それは「意志なくしてアクションなし」という上述の基本認識に則ったものである。

 反射的なアクションは、私たちの情報処理をどこまで洗練させていくのだろう。

 

 

*1:

さよなら、インタフェース ?脱「画面」の思考法

さよなら、インタフェース ?脱「画面」の思考法

 

 

*2:High Frequency Trading(高頻度取引)の略。コンピュータのアルゴリズムがミリ秒単位で銘柄を売買し、これまでのように特定の経済主体がいち早く情報をつかむことの優位性が解消されつつある。詳しくはケヴィン・スラヴィンによるTEDでの講演や、マイケル・ルイスによるノンフィクション『フラッシュボーイズ』を参照。

www.ted.com

フラッシュ・ボーイズ 10億分の1秒の男たち

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