弱いAIがもたらすものー虚体から虚思考へ

「もっと他のことを考えたい!」という欲求から、いろいろなことを「自動化」(=習慣化)していきながら、そうやって習慣化されたことは無意識に沈殿し、意識の領域に影響を及ぼす。

 

 意識の領域で考えられることを増やすために習慣化したのに、皮肉なことにその習慣は、無意識の領域から私の意識と、そこで展開される様々な思考を制約するようになる。脳とはなんとも厄介な仕組みでできているものだなぁ、などと思いつつ、一方では「いや、そんな風に自分が思い込んでいるから現実にそうなってしまうだけであって、実は脳は別の仕組みで動いているかもしれない。ただのプラシーボ効果、或いは予言の自己成就のようなものにすぎないかもしれない」などと思ったりもする。

 

そして、そんな風に考えていると、ふとこんなことを思う。

 

これまでにも、そしてこれからも、誰によってもなされたことのないような仕方でものを考えることは、果たして脳にとって可能なことだろうか。

 

 この着想はそれほど突飛なものではなくて、最近ブログの記事で触れ、またまさに今日、吉祥寺のジュンク堂書店でもその政治論文集を購入した埴谷雄高「虚体」という概念に触発されてのものだろうと思われる。それは「実体」に対置されるもので、今までも、そしてこれから先もずっと実在しないものを指す「虚構=フィクション」である。

 虚体とは、科学的にものを考えることに慣れている人間から見られるならば、そんなものを相手にしていることはバカバカしく、もっと実体に集中すべきと諭されることになるような代物かもしれない。しかしあいにくと埴谷の指摘に沿ってそれに答えるならば、科学と文学とは初めから違うもので、科学は「量」を扱い、「なぜ」には答えられず、「いかに」にしか答えられないのに対して、文学はただひたすら「質」を扱い、点数のような「量」でもって評価することはできず、いいか悪いか、面白いか下らないかというような「質」によってしか評価することはできない。そしてそんな「質」を中心に展開されるからこそ、そこでは「虚構(フィクション)」が成り立つのである。だからいくら科学の側から何を言われようと恐るるに足らない。それは文学とは初めから違っているのだから。こんな答えになるだろう。

 

 そしてそんな「虚体」に触発されるようにして思いついた「虚思考」とでも呼ぶべきものについて、私は「弱いAI」(weak AI)を連想する。人工知能といえば「強いAI」(strong AI)「弱いAI」(weak AI)の二つに分けて考えることができる。前者は「人工知能」という言葉の意味にしたがい、「人間の知能を構成的に再現すること」*1に重きが置かれ、人間が考えるのと全く同じように人工知能にものを考えさせることができたときが、人工知能の完成だ、と捉える。一方で「弱いAI」とは、必ずしも人間がものを考えるのと同じように人工知能に考えさせることを実現する必要はない。機械には機械なりの考え方があるはずで、それは必ずしも人間のそれと等しい必要はないと捉える。

 

 人工知能に関する最近の多くの議論のように、人間が人工知能と対比され、人々が「人間は機械とは違う。人間には人間らしい考え方がある」みたいなことを素朴に信じている限り、これまで人間が考えたようなしかたとは違う全く新しいものの考え方、言い換えると「虚思考」には近づけないのではないかと思う。何かにこだわったり執着しているときには、凝り固まって新しいものを入れるゆとりを失ってしまうということがよくある。まあそれが「いつも」とは限らないところが厄介なわけだけれど…。

 人工知能「ディープラーニング」(深層学習)という「突破口」(?)を見つけ、アメリカの大企業を中心に投資が盛んになり、日本でも注目が集まっている今だからこそ、人間がものを考えるということはどういうことか、そしてこれまでに人類が慣れ親しんできたようなものの考え方というのは、人間という種の生物にとって必然であり、唯一の選択肢(いや、これは言語矛盾か)なのか、その辺のことを改めて問い直し、考え直す絶好のチャンスなのではないか。

 そして、人工知能はどのようにものを考える(処理する)か」ということを考えることを通して、私たちは自分たちを見つめ直し、私たちがどのようにものを考え、また新たにどのような仕方でものを考えうるかということを発見することもできるのではないだろうか。だからそのような意味では、私は個人的に「弱いAI」の方により強い関心を寄せている。もちろん「強いAI」という考え方はあっていいし、また人間の知能を解明するという目的のためには有意義な研究だろうとも思う。

 しかしあえていえば、それとは違った姿をした知能を作ることを目指すという方向もあってよいと思う。あえて「人間とは違ってもいい」と考えることで、人間の側も知能の新しい姿に出会い、また自分たちがこれまでに当然のように採用してきた、また日常的に「デフォルト」として使い倒しているところの、「人間らしいものの考え方」の自明性を解体し、人間にもまた、「弱いAI」において再現されているようなしかたでものを考えることができるという可能性を予感させる、そんな役割を弱いAIは担えるのではないかと考えられるからだ。

 とかく人類の未来を脅かす危険性にばかり目が向けられるところのある人工知能ではあるが、私はもっと人工知能、とりわけ「弱いAI」が人類にもたらし得る恩恵について考えてみてもいいのではないかと思う。もちろんそれによって人工知能がもたらす危険性がなくなるということはないだろうけれど、人工知能と人類との関わり方を見直すことを通して、間接的ではあるにせよ、社会における人工知能の立ち位置、使われ方、或いは人類との共存の仕方についての見方も変わってくるのではないか。

 そして弱いAIをめぐって人間が考えを巡らしたとき、人間はそれを通じて「虚思考」の片鱗を垣間見ることになるのではないか、と私は密かに期待している。そしてまたそのような仕方で、科学が文学との接点を見出すのであれば、それは大いに興味深いものであると思う。

*1:ここのところの定義も研究者によって様々で、統一的な定義がまだ存在しないような状況だ。詳しくは松尾豊『人工知能は人間を超えるか』45ページの図1、或いはそこで出典と書かれている人工知能学会誌』(※ただしいつのものかは不明)を参照。ちなみにここでの定義は長尾真氏(京都大学名誉教授、前国立国会図書館館長)による「人間の頭脳活動を極限までシミュレートするシステムである」という定義と、山口高平氏慶應義塾大学理工学部教授)の「人の知的な振る舞いを模倣・支援・超越するための構成的システム」という定義の2つを参考にした。

人工知能は人間を超えるか (角川EPUB選書)