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オリジナリティとはなんだろう

 塾で高校生に英語の授業をしていた時、いつもの調子で何気なく生徒が言った「うまく言えないんだけど〜」という表現について、ふと考えていた。

 言葉というのは、「空気を読む」や「やばい」など、特定の言葉をみんなが使うようにしておくことで、話し手と聞き手の間で「これを言ったらこういう意味ですよ」という約束しているようなものだ。それが通じる人の規模は大小さまざまで、広く社会全体で通じるような言葉もあれば、家族内や親しい友人同士、恋人同士の間でしか通じないような言葉もある。

 約束は、それが何についてのどんな約束であろうと、必ず自分と自分以外の誰かを必要とするという意味で、自分の外に開かれたものだ。自分の中だけで完結するようなものは、約束にはなりえない。「自分自身との約束」という比喩を用いることはできても、それはあくまで比喩であって、本物の約束ではない。それは約束ということの本質を考えてみればわかる。自分以外の誰かがいて、その相手との間でどうなるかわからない出来事があるからこそ、約束をして起こりうる結果を確定しておくのだ。だから約束は、ある種の保険であると考えることもできる。

 しかし「約束」という役割をもたない言葉もありうる。何か言いたいことがあって、それがうまく言えない、そんなことがある。そんなとき、単にボキャブラリーが不足しているだけだったら、ボキャブラリーを増やせば解決するだろう。しかしそうではない場合はちょっと厄介なことになる。そのとき言葉は、「約束」とは違った顔を見せ始める。誰にも自分にしか理解できない様な言葉の使い方というのがある。それを他の人に言ってみたところで相手はチンプンカンプンで、一向に伝わる気配がない、そんな言葉が。

 それを「オリジナリティ」とか「創造性」と呼んでみることは簡単だが、なかなか他人から理解されないからこそオリジナリティがあるとか創造性があるとか言えるのであって、理解されない間は苦しみ続ける人間も少なくない。承認欲求の強い人間にとっては、相手に伝わりにくい言葉を使うことはある種のリスクだとすら言える。しかしその分、オリジナリティや創造性からは遠ざかることになるかもしれない。少なくともその人にとってのオリジナリティや創造性とは、他者に理解される範囲に限定されてしまうだろう。

 うまく言えないことがあるとき、それは考えようによっては、私たちは自分のオリジナリティに立ち会っていると言える。自分の中でははっきりしているのに、相手に伝わる様にうまく表現することができない、そういうものの中にオリジナリティや創造性は潜んでいることも少なくない。言いたいことがスラスラ言えるときというのは、だいたいオリジナリティや創造性のあることは言えていない。少なくともすでに誰かが似たようなことを言っていたり、過去に自分が言ったことの繰り返しに過ぎなかったりする。

 言いたいことが言えないもどかしさというのは、コミュニケーション能力の不足とか、ボキャブラリーの貧しさという風に捉えられがちだが、もう少し積極的に評価することもできるのではないか。つまりそれは、自分の中にあるオリジナリティや創造性を垣間見ることのできる貴重なチャンスなのだと。