私たちが対話の相手ではなく画面を見つめるようになって何が変わったか

 高校生の現代文で出てくる評論の文章からは学べることがかなりあるのでたまに読み返してみたりする。昨日も若林幹夫「メディアと市民的公共性」という文章を読んだのだが、メディアと人間の関係について改めて考えさせられるいいきっかけになった。こういう文章を読むと、「○○の分野の最先端の議論」という風に帯に書かれた翻訳書の議論が、実は以前から日本国内で議論されていたことの焼き直しに過ぎない場合があるということに気付かされる。自分がそういう議論をちゃんとフォローしていなかったから気が付かなかっただけで、前からずっとあったのだと。そしてそういう「流行りの本たち」に翻弄されず、腰を落ち着けてちゃんと考えると、今目の前で展開している物事についてすっきりとした視点を持つことができる。また、フィード購読やニュースアプリを使って記事の乱読を毎日続けていたら、いつの間にか自分の頭で考えられなくなっていくということが実感としてよくわかる。たくさんの情報に触れても、それをもとに自分の頭で考えるというところをすっぽ抜かして、ただ感想だけつけてTwitterに投稿していても、頭が良くなることはない。自戒を込めて。

 

 さて話の軸がそれてしまったがそろそろ本論に入ろう。マスメディアが登場する前までは、人々にとっての「メディア」というのは「顔見知りの他人」がほとんどだった。顔見知りの人間たちと対話することで新しい情報を得て、それをもとに自分の立ち位置や社会の行く末を考え、世界を認識していた。「あの人からこんなことを聞いた」ということが、その人の世界観の大部分を形作る上で重要な役割を果たしていた。古代ギリシャでは広場(アゴラ)に集まった人々が対話によって互いに意見を交換し合い、直接民主政による政治を行っていた。人口の規模は数万人と想定されているので、そんなことが可能だったと見ることもできる。

 

 人口の規模が大きく拡大し、大規模の人間に対して効率的に情報を伝えるためにマスメディアが登場して以降、いわゆる「メディア」と呼ばれる新聞、雑誌、ネット、SNSなど、「顔見知りの他人」以外の人間が書いたものを読むことが急激に増え、その一方で様々な他者との対話は減っていった。これを一言で「反古代ギリシャ化」ということもできる。メディアを通じて報じられる政治家や企業の行動、発言、スキャンダルをもとにして、私たちは自分の属する社会を理解する様になっていった。

 そしてそのようにして、「向こう側」で起こっていることを伝える媒体は、顔の見える他人から顔の見えない他人へと軸が移り、名前は知っているが話したことはない他人から、政治や社会や睡眠のコツや、効率的な仕事の進め方などに関する情報を、活字を通して得るようになっていった。それと引き換えに、私たちは顔の見える他人と話をすることが減り、政治や宗教やお金について周りの人間と話すことは、いつの間にかタブーのようになってしまった。あるいは話し始めると、嫌悪感や恐怖について感情レベルでやりとりするにとどまり、とても対話とは言えないものが多いように思う。そういう状況を見ていると「嫌韓」や「ヘイトスピーチ」が生まれるのもうなずける。

 

 最近の人々は情報収集と言われて「対話」という方法を思い浮かべることはほとんどなく、「メディアに溢れる情報洪水の中から価値のある情報だけをいかにサクサク効率的に選択(スクリーニング)するか」という風に考えがちだ。しかし、そもそも情報収集の起源は対話による理解だった。もちろんそれだけが唯一の方法だとまでは言わないし、また言うべきでもないだろう。活字を通して情報を集めることだって昔から行われてきたし、学問の進歩にしても活字を通した情報収集ぬきにはありえなかった。ただここで問題なのは、活字を通して情報を集める時に、私たちは自分からそれを集めに行くという能動的なしかたではなく、向こうから勝手にやってくる活字の群れにどう向き合うかというしかたでそれを行っているという状況だということだ。これは各自の主体性が問われる対話とは大きく異なる。そこには「情報をどのように公共的に管理するか」ということについての、特定の思想が反映されている。その思想は、私たちが自ら考え、選び取ったものだろうか。それともどこかの誰かが勝手に作り上げ、私たちは熟慮することなしに受け入れてしまったものだろうか。つまり私たちは世界をどう捉えているかということについて表明する各々の言説は、そのときそのときの「権力」によってどのように影響を受けているかという問題につながってくる。これはフーコーの権力論と重なる視点だ。

 

 対話のときには、わからないことがあればその場で相手に問いただすことができる。また自分の意見を主張する機会も与えられている。一方で、読むというときには、わからなくても一旦飛ばしてしまったり、一度読んで理解した気になって再読しなかったりする。読んだことをもとに何かを主張する機会があるのならまだいいが、読みっぱなしで何かを理解したと錯覚してしまう。しかもそれは、読めば読むほどひどくなっていくこともある。本をたくさん読む人というのは、すでに読んだ本の内容を思い浮かべることが多くなる。そういう者たちが読むときに行っていることの多くは、単に「思い出す」ことであって、それは「自分の頭で考えること」とは違う。読めば読むほど考えられるようになると主張する者は、この二つを峻別しない。

 その上で「読む」という行為が、自発的なものでなく、向こうからやってくるものに対する「反応」として行われる状況に陥っているとなれば、私たちはそもそも本当にそれを「読んで」いるのか、或いは「考えて」いるのか、怪しくなってくる。メディアのあり方が変わると、それだけで人間は大きく変わってしまう。対話によって自分でものを考えていた人間たちは、時代が進み、技術が進歩してメディアが発達し、自分の頭で考えなくなった。人間以外のものごとがどんどん進歩している中で、ただ人間だけが退化しているのではないかとさえ思える。紙の本が出たとき、対話による理解を重視したソクラテスは、人々が自分でものを考えなくなるのではいかと懸念したという。そのことの意味が、メディアをめぐる状況を見ていると少しはわかるように思う。

 

 人々は対話をしなくなり、大規模に「大衆」(mass)としてひとくくりにされ、メディアから一方的に情報を受け取るだけの受動的な主体に成り下がってしまっている。「大衆とメディア」という図式の中では、大衆の中の人間たちは皆同じ方向を向いていて、その先には「メディア」があり、メディアの向こう側に政治や社会や、経済や技術や、専門家や芸能人たちがいる。これは人間同士が直接向き合って情報をやりとりをする「対話」とは状況が大きく異なる。「大衆とメディア」図式においては、大衆が能動的に情報にはたらきかけることができる機会が奪われてしまう。これはメディアを通じて政治のことを知るという、現在では当たり前とも言えそうな、それでいて恐ろしい状況とも深く結びついている。つまり政治という「おおやけ」に対して、大衆は個人や個々の利害に沿って造られた小さな集団に分断された状態でメディアに向き合うことになり、そこには意見を異にする者との「連帯」が生じる契機がなかなか生まれない。ソーシャルメディアを見ていると、メディアは意見の違いに対する不寛容を助長しているとすら思える。メディアは意見の違いを際立たせ、確認し、温存し、まるでその違いが既成事実であるかの様に見せる。それはいわば「塗り絵マシーン」である。

 政治とはもともとは、そこに生きる人間同士の対話を通じて、何かを妥協したり強引に押し通したり、時には引いたりすることでなされるものだった。それが今では、政治はどこか遠くにそびえる得体の知れないなにかになっている。

 最近ではネットやニコニコ動画SNSやにおける「コメント」機能や、テレビ放送中のTwitterでのツイート表示を行うテレビ番組など、少なくとも「見かけ上」は双方向性をもたせたようなメディアも増えてきたが、それらが対話と同じレベルで主体に能動性を与えられているとは到底思えない。例えばテレビでコメントを受け付けていても、誰のどのコメントに返事をするかはテレビで話す者の判断に委ねられていて、そこには非対称性があるが、一対一として向き合う対話においてはこの様な非対称性は存在しない。対話に参加する2人は、相手の主張に対して常に返答を求められる。このような関係はテレビやネットやSNSにはない。よく言えば強制がないが、悪く言えば対話にならない。

 電車の中で、私たちはスマホの画面を見て政治の記事を読みながら、隣にいる他人が何かマナー違反をしていても関わることはしない。そういう「めんどくさい」ことはしないのだ。しかしそういう面倒な生身の人間関係を前提にしなければ、本来は政治などできるはずがない。だから生身の人間関係を避けるようになってしまった社会で、まともな政治が行われるはずがない。それは個々の政治家の問題などではない。「面倒な人間関係」の問題だ。或いはその方法としての「対話」の問題だ。

 

 メディアと人間の関係を考えるということは、人間と人間の関係を考えるということを抜きにしてはありえない。メディアを媒介として、必ずその両端には特定の人間が存在しているが、現在のメディアの多くは、対話と同じレベルでメディアを機能させるという基本的な認識を失って迷走しているように思える。