興味がないものは、視界に入っていてもちゃんと見えてはいない

 先日アルバイト先の塾でこんなことがあった。いつもの様に高校生の授業をしていたら、担当している生徒が「高校の英語の先生が面白くて、宮崎駿に似ている」という話をし始めた。写真があるというので見せてもらったら、髭をたくわえたおじさんではあるものの、宮崎駿に似ているとは思わなかった。

 

 十代の女子高生の頭の中では、おじさんにそれほど興味のある子は少ないだろうから、「髭をたくわえたおじさん」といえばみんな宮崎駿と同じカテゴリーに大雑把に分類されているのかもしれない、とふと思った。何をどれだけ細かく分類しているかは、その人がどれだけ対象に関心を持っているかによって変わってくるし、自分が使えるボキャブラリーとも関係するだろう。概して言えばボキャブラリーが充実している方が、カテゴリー分けも正確に実行できる。

 

 以前に養老孟司さんと押井守さんの対談している動画を見たことがある。その対談の中で、押井さんが作画を教えている若い人たちに風景を書かせたところ、みんなそれぞれ違うところに注目して絵を書いていて、押井さんは電柱のトランスのかっこよさに見とれていたが、他の人は誰もそこには注目していなかったらしい。

 ちなみに対談の映像はこれ。以前はYouTubeで見られたのだが、今は削除されてしまっている。音声のみならニコニコ動画で見つけることができた。

押井守と養老孟司の対談 ‐ ニコニコ動画:GINZA

 

 対談の中で他にも面白いところはいろいろあるのだが、この記事に特に関係することでいえば、若い絵描きにアニメのモブシーンを書かせると、男性は女性の顔を書かせると、よくて若い女性・年寄りの女性・少女の3種類しか書けないが、女性に男性の顔を書かせると色々なバリエーションがあるという話がある。大抵は若い女性しか書けなかったりする。それは少女や年寄りの女性に関心がないからだ、と押井さんは言う。

 

 もう少し別の例を挙げよう。例えば私の部屋には300〜500冊くらいの本がいくつかの場所に分かれて並べられている。自分にとってはどこにどんな本があるかわかっているけれども、家にやってきた他人からすれば、「本が大きさごと、ゆるくジャンルごとに分かれて並んでいる」というくらいにしか思わないだろう。私と他人の間で、そこにも認識に差があって、並んでいる本との心理的な距離、或いは関心に応じて、認識の「解像度」が違ってくる。私は一冊一冊まで鮮明に捉えられているが、他人からすればただ本が並んでいるというくらいの解像度だろう。

 

 個人個人で、自分が視界に収めたものについて、それぞれ違った解像度で、違ったカテゴリー分けをしながら見ている。そこで自分と他人の間で食い違いを減らし、共通の解像度、共通のカテゴリーでものを見られる様にするために、大抵は言葉を使ってコミュニケーションが行われる。そしてそこに落とし穴がある。

 

自分はこう思っていたけど、あなたはどう思った?

そうか、あなたはそう思っていたのか。

 

 そうやって「認識の公約数」をなるべく大きくしていく。最大公約数を見つけたと思ったときに、同じものを見られたと感じ(錯覚し)、コミュニケーションの目的は達成されたと思ったりする。しかし実際は、同じ言葉を使っただけであって、その言葉に対応する脳内の何らかの活動まで揃ったとは限らない。そこが一致することはほとんどないだろう。そうだとしたら、言葉で分かり合える領域にはどうしても限界がある。落とし穴とは、同じ言葉でも同じ内容を指すとは限らないということだ。リリエンベルグのザッハトルテは、それを知らない人にとっては存在しないも同然で、知っている人でも人によって思い描いているイメージは異なる。言葉というのは「共通の言葉を使えば理解の助けになる」ということを前提にして成り立っているけれども、共通の言葉を使ったからといって十分とは限らない。

 

 自分の頭の中にある、ある事柄やイメージを表すのに、「迷路」という言葉を使ったところで、相手はそもそも迷路という言葉について自分とは違ったイメージをもっていて、違ったカテゴリーわけで迷路を捉えている。それは文字列や音声としてみれば同じでも、中身が違っているということになってしまう。或いは「スカーゲンの時計」と自分が言ったとして、相手がスカーゲンを知らなければ、相手の頭の中にはスカーゲンは存在しない。時計の実物を見せて説明して初めて、相手の世界の中に「スカーゲン」が誕生することになる。

 

 人間は意識して何かを考えているときと考えていないときとで、脳の活動レベルにほとんど違いがない。私たちはものを考えている時に、脳を必死に使っている気になっているが、脳からすれば少し余分にがんばらなければならなくなった、という程度のことにすぎない。それは意識で扱える情報には限りがあるということを示している。そうすると同じ範囲のものを見ていても人によって認識が違うということが起こる理由がわかるように思う。つまり意識の範囲では扱える情報が少ないのだから、それぞれが自分の関心のあるものだけに限定してものを見なければならなくなっているのだ、と。そして意識によって狭められた認識が無意識に影響を及ぼし、「何を見ようとするか」「そもそも何を視界に収めるか」すら方向付けていく。

 

 私は今日、何を視界に収め、その中から何を切りとってものを考えるんだろう。