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ドラマ「いつかティファニーで朝食を」の第一話を見て

 10月10日から日本テレビで始まったドラマ、「いつかティファニーで朝食をの第一話をHuluで見た。あるシーンを見て吐き気がするほど気持ち悪いと感覚を抱き、一度見るのをやめてしまったのだが、「そんな風に何かを途中で投げ出したり切り捨てたりするのが自分の悪い癖だ」とか「これでは自家撞着だ」と思い直して、1日空いてしまったが続きをさっき見てみた。

 

それでもやっぱり、吐き気は消えなかった。

 

 もともと書店で原作の漫画は気になっていて、それでも買わず終いだった作品だけに、ドラマ化されたと知って興味を持ち、見てみたという経緯だった。

作品の登場人物と人間関係(記事に関係すると思うところのみ)

 アパレル会社に勤める主人公の佐藤麻里子(トリンドル玲奈)は、同棲している恋人の吉田創太郎(岩井拳士郎)との間に「すれ違い」を感じる。麻里子は毎朝母が品揃えの豪華な朝ごはんを作ってくれる家庭に育ち、朝食を大切にする価値観を形成した。一方で恋人の創太郎は、朝食を一緒に食べられないことに不満をこぼす麻里子のことが理解できない。創太郎は仕事で帰りが遅く、帰ってくると彼女にセックスをせがむ。毎日セックスをせがまれる麻里子はそれにうんざりもする。

 そんな「すれ違い」に悩んだ麻里子は新しい物件を探し、友達を集めて女子会を開く。女子会が開かれた店は彼女が以前から創太郎と一緒に行きたいと思っていた、豪華な朝食が食べられるお店だ。彼女はそこで、友達と一緒に朝食を食べ、一息ついてこう言う。

 

「よし、私決めた。やっぱり自分の気持ちに逆らいたくない。私は朝ごはんを大切にしたい。たかが朝ごはんって思われるかもしれないけど、大事にしてきたものをちゃんと大事にしたい。」

 

すると周りの友達はこう言う。

 

「いんじゃない、それで。」

「いいと思うよ。」

「大事だね、それ。」

 

麻里子は友人たちの言葉で決心する。そして内心こう思う、「やはり持つべきものは友達だ」と。自分が吐き気がしたのはこの辺りのシーンだ。

 何が気持ち悪いのか。それはこのシーンに、女性だからなのかなんだか知らないが、麻里子やその友人たちの無自覚な自分勝手さと、それでいて彼氏の自分勝手さを一方的に非難して同じ価値観の友人たちとの間で、「そうだよねーそうだよねー」と意見を確認し合って「私、決めた。」と薄っぺらい決断を下す態度が透けて見えたような気がしたからだ。

ここから自論。

 誰かと付き合うということは、自分が大切にしているものを大切にするだけではなくて、相手が大切にしているものも大切にする覚悟をしなければならない。

 それは自分の大切にしたいものとの間でうまく調整ができないこともあるだろうけど、誰かと本気で付き合うということは、そういう「どうしようもないこと」を受け入れる覚悟をするということなんじゃないか。麻里子のように、「私はこうしたい。だからそれを破るくらいなら別れる」みたいな考え方は、かっこいいとも美しいとも思わない。そんなのははっきり言って、ただの子供っぽいわがままにしか見えない。自分の価値観以外のものを許容できないならば、他人と本当に付き合うことなんてできやしない。

 そんな彼女が「持つべきものは友達」なんて思っているのだから、こんな皮肉はないと思う。彼女が友達と呼んでいる人間たちは、彼女と同じような価値観を持ち、彼女と違う価値観を持つ彼氏と別れることを誰一人止めたりせず、彼女にゴーサインを出す「イエスマン」的な人間ばかりだ。友達というのは、まあ必ずしも自分と価値観が違っている必要はないかもしれないが、仮に価値観が違っていたとしてもそれを認めた上で一緒に過ごしていけるような人間のことだ。同じ価値観の人間というのは、他人のようで実は自分の分身に近く、他者の他者性(端的にいって、自分と違っていることによって「ああ、この人は自分とは違う人間なのだな」と感じさせるような性質)が希薄な存在だ。

 恋人にしろ友達にしろ、他者性の強い他者と付き合えなければ、社会は成り立たない。仕事を早く終えてケーキを買って帰り、彼女に「今日こそは」とセックスをせがむ創太郎に彼女は言う。

 

「あたし気付いちゃったの。あたしの生活の中に、創太郎がいなくても全然平気だって。」

 

残酷でしかない。これで視聴者は「よく自分の価値観を貫いた!麻里子がんばった!」とか思うのだろうか。自分は残酷な人間だとしか思えなかった。こんなに端的に他者を否定する表現はない。そして自分の言っていることが他者の他者性の否定であることに、麻里子は気付いてすらいないのだろう。こういうところで無自覚な人間は本当に始末が悪いとつくづく思う。

そして先ほどのセリフから少し間をおいて、麻里子はこう言う。

 

「ごめんね。今までありがとね。」

 

朝が来て、新居で一人起きた麻里子の心の中で、母の声が聞こえてくる。

「麻里子、ちゃんと朝ごはん食べてる?」

麻里子は台所に立ち、朝食を作り始める。

そして卵を割る麻里子の後ろ姿とともに、彼女のモノローグが入る。「こうして私の理想の朝食を求める日々が始まった。」

ドラマは間もなく終わり、ドラマの中で麻里子たちが女子会をした店が紹介される。

コンセプトは「優しいを食べるカフェ」

という字幕が付いている。この店は何も悪くないのだが、ドラマの流れからすると自分には皮肉にしか見えなかった。一体何が「優しさ」なのか、と。自分とは朝食に対する価値観が違うという理由で恋人に別れを告げ、他者の他者性を無自覚に否定してみせるような麻里子に、優しさなんて言葉は似合わない。優しさという言葉は、他者の他者性を認める態度について使う言葉であるはずだ。それは決して、自己と価値観を同じくする人間同士で同じような意見を確認しあい、盲目的に同調圧力に流され、他者性に接しても依然としてそれと向き合い続けることのできる真の確固たる主体性を持たず、他者性をあっさりと否定してしまうような人間たちに対して使う言葉ではない。

 

自分はこんな女性は絶対にごめんだと思った。自分は創太郎の側に立ちたい。それは何も、毎日彼女にセックスをせがむ彼の気持ちに、同じ男性として共感できるとか、そういうことじゃない。麻里子と創太郎の性別が逆だったとしても同じことだったろう。

 たとえそれが、自分と麻里子の価値観が違うからといって、麻里子を否定するような自分の姿勢もまた、他者の他者性を否定していることにしかならないとしても、せめて現実に生きている人間については、自分は他者の他者性とか、他者の他者たる所以を尊重できる人間になりたいと思う。そうでなければ平和にもならないし、社会は回らないと考えるからだ。

 

そして私は、第二話以降も見続けようと思う。それは麻里子という他者と向き合い続けるためでもある。ここで見るのをやめてしまっては、自分もまた、麻里子になってしまう。