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言葉にこだわることは、ロジックにこだわること

先日こんな記事を読んだ。

diamond.jp

 記事の中で述べられていることだが、マッキンゼーの人たちはプレゼンをするとき、難解な専門用語はほとんど使わず、あくまで日常の言葉でプレゼンするらしい。下手に「ファネル」だの「マトリクス」だのと「それらしいビジネスジャーゴンを使って尤もらしいことを言っている気になるよりは、日常で使う平易な言葉を使い、あくまでも「自分の思考の筋道を示すこと」に集中する方が相手に伝わりやすい。そしてそういう平易な言葉によって表現されたものの方が、論理がしっかりしやすいということもある。

 ちなみにこの連載記事は単行本として出版されている。面白そうだったので早速買って読み進めている。

 津田久資さんという方の『あの人はなぜ、東大卒に勝てるのかーーー論理思考のシンプルな本質』という本だ。面白いのはこの津田さんは灘校出身の東大法学部卒だということだ。しかしだからといって、東大卒の人だからできるような属人的なことが書かれているわけではなく、ちゃんと読めばスッキリ理解出来るし、また実践できることばかりだ。そして「考える」ということについて、自分なりに考えさせられるいいきっかけを提供してくれるという意味でとてもいい本だと思った。値段は1400円+税だから、1500円で買える。全部で7章あって、「あとがき」まで含めて255ページと手頃な分量である。

あの人はなぜ、東大卒に勝てるのか―――論理思考のシンプルな本質

あの人はなぜ、東大卒に勝てるのか―――論理思考のシンプルな本質

 

 

 ところでジャーゴンとは日本語でいうところの「隠語」であり、専門家や一部の人間の間でしか通じないような言葉や言い回しを指す。ビジネスに関するジャーゴンをやたら使うことで、自らの知性を示そうとしているような状態(まあ実際には意図とは反対に知性のなさを示していることにしかならないと私は思うのだが)のことを、この記事ではジャーゴン病」と呼ぶことにする。

アニメの中にも見つかるジャーゴン

 ジャーゴン病はアニメの中ですら批判の対象になっていたりする。私が最近出会った例ではやはり俺の青春ラブコメはまちがっている。がある。その第2期の第6話、「つつがなく、会議は踊り、されど進まず」の中で、登場人物(高校生)たちが他校の生徒会と議論するシーンがある。その他校の方の生徒会の委員たちが「いかにも最近の若いビジネスパーソン」という感じで、やたらカタカナ言葉を使い、考えているようで何も考えておらず、決定しているようで何も決定しておらず、負うべき責任は「コラボレーション」とか「シナジー効果」という言葉のもとに複数の人間に分散されていくさまが戯画的に描かれる。

ここに少し、そのセリフを引用しよう。

 

(他校である海浜高校の生徒会会長、玉縄の初対面での挨拶)「お互いリスペクトできるパートナーシップを築いて、シナジー効果を生んでいけないかなって思ってさ。」

「俺たち高校生の需要を考えると、やっぱり若いマインド的な部分でのイノベーションを起こしていくべきだと思う。」

「そうなると当然、俺たちとコミュニティー側のWin−Winな関係を前提条件として考えないといけないよね。」

「戦略的思考で、コストパフォーマンスを考える必要があるんじゃないかな。」

(ここで議長が一言)「みんな、もっと大切なことがあるんじゃないかな?・・・・・・・・・ロジカルシンキングで論理的に考えるべきだよ。お客様目線でカスタマーサイドに立つっていうかさあ。」

(他の生徒会役員)「ならアウトソーシングも視野に入れて…。」

「今のメソッド、スキーム的に厳しいけど…どうするの?」

「一旦リスケする可能性もあるよね。もっとバッファをとってもいいんじゃないかな。」

こんな風にビジネスジャーゴンをふんだんに使いながら議論が進行し、ブレインストーミングだからという理由で誰のどんなアイデアも潰さず、近隣の住民や他の高校までも巻き込んで、責任の所在を明確にしないまま、必要なことは何も決まらないという状況が描かれる。これはビジネスジャーゴンを使ったビジネスの「ごっこ遊び」しかせず、肝心の中身を本当に考えて決めるということをしないからこそ起きた事態だろう。 

 そういうことは果たしてこのアニメの中だけで起こる特殊な事態だろうか。私はそうは思えない。いわゆる「意識高い系」の人々の書いた文章や発表を見ていると、だいたいこういう状態に陥ってしまっていて、肝心なところがおろそかになっている。それでもそれを読んでいる人、聞いている人が学生だったりすると、まだ自分の頭で考えることができなかったりするから、言葉や話者の雰囲気に酔いしれて簡単に納得したつもりになってしまう。

 もう少し対象範囲を拡張すれば、これは政治においても起きがちな現象ではないだろうか。難解な専門用語をもちいた経済論説、世界情勢の論説、原発や遺伝子組み換えなどの高度な科学技術が絡む専門的な問題における言説など、ジャーゴンを当たり前のように使うことによって、決めるべきことをいつまで経っても決められない、そんな事態がそこかしこで起こってはいないだろうか。果たしてそれは時の政権、あるいは総理一人の問題だろうか。民主主義とはなんのことだっただろうか…。 

 アニメに話を戻そう。こんなところにも世間のビジネスパーソン自己啓発やらに対する違和感と批判が表現されていて、興味深かった。まあこういうアニメを目にして自分たちの滑稽さに気付かされるという人はそう多くはないのかもしれないが…。一見するとライトノベルからアニメ化されただけに思えるアニメの中にも、ときに痛烈で知性の光る社会風刺を見つけることがあって、それが私をアニメから離れがたくさせる。風刺が光るのは攻殻機動隊サイコパスのような、明らかにそれとわかるシリアスアニメの中だけではなかったりするのだ。そしてだからこそ面白い。

 言葉にこだわること

 さてアニメからさらに遡り、記事の話まで戻ろう。記事の後半、3ページ目で自動車メーカーのホンダの話が出てくる。本田技術研究所の人々は、言葉に対して徹底的にこだわることによって、自らの創造性を育み、それによってホンダは現在の地位を築くことができたのだということが指摘される。ホンダはトヨタや日産のずっと後で四輪自動車の市場に参入したにもかかわらず、である。

 言葉にこだわるということは、論理的に考えるためにはどうしても不可避だと私は考える。論理を使いこなすためには言葉を使わなければならないから、その言葉を誤って使っていたのでは、論理の方も誤ってしまうことになりやすいからである。ここで「誤ってしまうことになる」と断定的に書くのではなく、「なりやすい」とやや控えめに書いたのは、言葉を間違えたからといって必ずしも論理の方も間違えるとは限らないためだ。言葉を間違えてはいても、論理としては筋道が通っているということはありうる。

文学の世界は広大だ

 それが最も明確に表れているのが文学の世界ではないだろうか。文学の世界では、ありえないような表現、解釈が一定でない表現がよく使われる。しかし読者はそれに違和感を感じたりはせず、物語を読んでいればその流れで自然とそういう表現をも受け入れてしまう。いや、むしろそのように受け入れるという読者の性質を前提としなければ、文学の面白みの多くが消え失せてしまうとすら言えるのではないだろうか。文学以外にも、例えばアニメの世界、映画の世界でも、聞く者にとって誤解を招くという意味で「言葉としては間違っている」表現が使われていることがよくある。しかし誤解を招かない、言い換えれば解釈(意味の受け取り方)が一通りしかないような文学があるとしたら、それはなんと貧しい文学だろうか。

すれ違いの演出で成り立つ「お笑い」

 言葉としては間違っているということについて、もう少し違ったところから、考えてみる。題材は「お笑い」である。お笑いの世界ではしばしば言葉の言い間違いがきっかけになって、コントをする二人の間でわざと「すれ違い」(誤解)の状況を作り出し、それによって聞き手の理解の筋道を普通とは違う奇想天外な方向へ誘導していくことによって面白さを表現する。「どうしてそれがそんなことになってしまうのか」というところにコントの面白さがある、というのは、しばしば目にするお笑いの基本パターンだ。このように「言葉の誤り」(誤解を招く表現)をわざと利用することによって成立している世界もある。それはある意味で、お笑い芸人の人たちが「あえて誤解を生むような表現を選ぶ」ことによって言葉にこだわるからこそ生まれる芸当であるということができる。

ギズモードでの言葉のミス(そしてそれは論理のミス)

 言葉を使って、考えの筋道を示す。その重要性はアニメや文学、お笑いの中など、意外なところで示されていたりする。最後にもう一つ例を紹介してこの記事を終えようと思う。有名なメディア、ギズモードでの「言葉のミス」である。なぜそれが「ミス」だとわかるかと言われれば、論理的に考えたからである。ミスかどうかを判断するには論理的に考えてみればいい。論理的であることにこだわっていれば、どこがおかしいかちゃんと気付くことができる。もっとも、論理的であることは簡単でないというところが厄介なのだが…。

 

www.gizmodo.jp

記事の前半ではこう書かれている。

10人が背の高い順で一列に並び(自分より背の低い人のことは全員見える状態)、全員が黒か白の帽子をかぶらされます。さて、もしあなたがその中の1人だったとして、黒と白の帽子の数がそれぞれ何個かを知らずに、自分が何色の帽子をかぶっているか当てられるでしょうか? 答えは、イエスです。わかります!

 論理的に考えるならば、この答えは残念ながらイエスではない。それは論理にこだわっていれば誰にでも理解できる。何を隠そう、私自身もこの間違いに初めは気が付かず、現在付き合っている彼女にそれを指摘されて初めて気付いたのだ。私は彼女を誇らしく思うと同時に、自分自身のものの考え方について反省し、とてもいい機会になったと思う。

 もしこの10人の中で自分が一番背の高い人物だったら…と考えてみればいい。果たしてあなたは自分の被っている帽子の色を当てられるだろうか。残念ながら確率は100%ではなく、50%だ。だからもし自分が一番背の高い人間だった場合をちゃんと考えるならば、答えはイエスではない。

 イエスではないのだが、問題はこの記事の後半にある。後半ではこんな風に書かれている。

答え
帽子の数の内訳はわかりませんが、1番背の高い人には残りの9人の帽子の色がすべて見えています。そこで、その9名の帽子のうち、黒の帽子の数が奇数だった場合は「黒」、偶数だった場合は「白」と1番目の人が答えるということを事前の作戦会議で決めておくのです。必然的に1番背の高い人の回答は捨てることになりますが、たとえそこで不正解だとしても1問は間違ってOKなので問題なし。

これは記事の前半で出題されている問題に対する答えではない。なんと途中で問題がすり替わってしまっているのだ。だからそれに応じて答えも変わってしまっている。それではどんな問題に変わっているか引用しよう。

ある日、あなたはエイリアンに捕らわれてしまいました。捕まったのはあなたのほかに9名、全部で10名の人間です。エイリアンはあなたたちを食べてしまおうと考えていますが、10人である問題を解けたら解放してくれるといいます。

問題
背の高い順に一列に並び、それぞれに黒もしくは白の帽子をかぶせる。あなたは何色の帽子をかぶっているだろうか?

ルール
・黒の帽子の数と白の帽子の数の内訳はわからない
・背の順に並ぶため、前に並んでいる自分より背の低い人の帽子の色はすべて見えている
・事前に10人で作戦会議OK
・問題開始後は後ろを振り返ったり、「黒」・「白」以外の言葉を発してはいけない
・背の高い人から順に答えていく
10人中9人が正解したら人間の勝ち。解放!

 

最後の一文が重要だ。

「10人中9人が正解したら人間の勝ち。解放!」

問題はいつの間にかすり変わり、ちゃんと注意して読んでいなければ見落としてしまうだろう。こういうことにちゃんと気が付けるかどうかということは、私はとても重要だと思う。こういうことは気付く人は気付くし、気が付かない人は一生気が付かないままだったりするので、ある程度はセンスなのかもしれない。しかしできることが全くないわけではないと思う。つまり言葉にこだわればいいのではないか。あるいは論理にこだわればいいのではないか。

 シャーロック・ホームズみたいに、どんな些細なことにも目を配り、重要なことをちゃんと見抜ける人間になりたいなあ、という小学生の頃の漠然とした願望を改めて思い返していた。