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冷蔵庫の思想

26歳 テクノロジー 思想 情報科学 数学 日常 院試対策

【3197字 目安:7分】

先日こんな動画をYouTubeで見た。


東浩紀のゲンロンサマリーズ動画 vol.004 - YouTube

 動画の内容は、書籍の要約・レビューを月に8本のペースで配信する「ゲンロンサマリーズ」というメルマガの宣伝がメイン・・・のはずが、書店における人文書の並び方の変化、人文書の人格化、柄谷行人の『哲学の起源』における構想など、書店や本の話が中心である。この動画を見ていて、或いは見た後で、私の以前からの問題関心と関係する部分について考えていた。ちなみにゲンロンサマリーズは現在終了している。

 

 「ネットに何かを書き込む」ということが日常の一部になった。ものを食べるときに写真を撮ってTwitterを開き、誰かと飲みに行けば写真を撮ってFacebookを開き、悩みがあればブログを開く、というような行動パターンが広がった。「テクノロジーはどんどん見えなくなっていく」と言われるが、近頃ではネットに何かを書き込むとき、人はそれがネットであることをそれほど意識しなくなっているのではないかと思える。そういう意識の変化に起因するような不祥事や事件というのが目立ってきたように思う。

 人々が、日常のことを次から次へとネットに書き込むようになると、ネットはコンテンツであふれかえる。TwitterでもFacebookでもブログでも、それらはただ「時系列」を中心に並べられ、脈絡のない洪水のように表示されている。物理的な「仕切り」(区切り)或いは「断絶」というものがない。だからそこには「文脈」(context)「関係性」のようなものはない。そういうものを欠いた大量のコンテンツというのは、それに触れる者にとって「意味」「世界観」「空間」のようなものを作り出すことはない。

 SNSってそもそもそういうものじゃん」と言われればそれまでなのかもしれないが、ただただ時系列にそって並べられた大量のコンテンツに人々は疲れているのではないか。そしてそういう疲れは、あっさり見過ごすわけにはいかない、SNSというものの今後を大きく左右する要因なのではないか。

 SNS疲れ」(ソーシャル疲れ)という言葉がある。最近はあまり使われる場面を見なくなったけれども、SNSという空間における自己表現、とりわけナルシシズム(自己陶酔)のような自己表現の洪水に対する疲れという意味で使われることが多いが、この言葉にはもう少し別の側面もあるように思う。それは、「コンテンツの並び方」について感じる「疲れ」だ。

 検索エンジンについて考えてみる。Google「世界中の情報を整理する」ということをモットーとしている。なぜ整理しなければならないと感じたかと言われれば、そこには莫大な量の情報が雑然となって集まっているからだ。そこに何らかのしかたで秩序を作らなければ、人はそれを使おうという気にならない。もし図書館の本がなんの秩序もなしに雑然と並べられていたら、多くの人は図書館に行くことをやめてしまうかもしれない。そもそもGoogleという検索エンジンは、本の並べ方のルールについての研究がベースでスタートしたサービスであることの意味が、ここにある。

 人類史上、意味をなさない大量の文字情報に、人々が日常的に触れるようになったのはネットの登場以降が初めてだ。毎日毎日、SNSやブログサイトを開けば、そこにはいろいろな友人知人やフォローしている誰かの投稿が、それぞれなんの関係があるはずもなく、雑然と並べられている。そんな風に大量の文字を見せられることに、人は慣れていないのではないか。「ずっと使い続けているうちに、ある程度慣れてきた」と以前の私は思っていた。しかし最近になって、やはりある程度の「疲れ」というか、「ストレス」のようなものを感じるようになってきた。

 新聞やニュースキュレーションアプリであれば、政治面、経済面、外交面、社会面など分野によって、あるいは配信元の会社によって、コンテンツが分類されている。だから見やすいし、まとまりを感じやすい。書店でも基本的にはこれと同様に本が並び、またそれとは別に、特集のようなかたちで、特定のテーマについての本が独立したコーナーを作って並べられていたりもする。本の並べ方にも書店員さんなりのこだわりのようなものがあって、「ああ、この書店はこういう基準で本を並べるのだな」という推理のようなことをするのもひとつの楽しみになったりする。ユニークな並べ方をしている書店というのは、置いている本は他の書店とあまり変わらなくても、違う雰囲気を確かに作り出している。独特の世界観というものが店のなかに広がっているのを感じ取ることができる。そういう風にして、私は言葉がつくる世界に触れてきたし、その広がりや奥行きを感じながらコンテンツに向き合ってきた。

 さてSNSは言葉がつくる世界というものを作り出せるだろうか。あるいはそれは別のアプリに期待するべきものなのだろうか。私はSNSに期待したいと思う。Facebookは検索ということが実質的にはほとんどできないようになっている。ユーザーやグループやFacebookページ(企業のページ)の検索はできても、たとえば「量子コンピュータ」とか「安倍総理」とかいう「言葉」を軸にコンテンツを絞り込んで表示し直すということができない。しかしTwitterは違う。検索ボックスに「遅延」と打ち込めば、電車の遅延情報がすぐにわかる。それは特定の鉄道会社の公式アカウントの発表ではなく、顔も名前も知らない、会ったこともしゃべったこともない他者の書き込みであることがほとんどだ。しかし、私はその書き込みを信頼し、特定の行動を決定するための指針として利用する。

 大量のコンテンツをうまく利用する方法はいくらでもあると思う。それは最近はやりのビッグデータということとは少し意味が違う。問題は、それが有効に見えるように、大量のコンテンツの中から一部分だけをうまく選び、並べ替えて表示する方法をどうするかというところにある。使う者にとって意味のある情報、重要な情報、必要な情報だけを選択的に提供できるようなしくみの有無は、大量のコンテンツによって成立しているサービスにおいてきわめて重要だと私は思う。

 

 ちなみに以前にもこういうテーマで記事を書いたことがあった。そのときはGoogleが大量の情報を整理するときの方法と、私がそれを整理するときの方法とでは、どちらが私にとってしっくりくるかということを中心に考えた。おそらくは私自身が整理する方がしっくりくる場合が多いだろう。もちろん私は検索エンジンを作る技術は持ち合わせてはいないから、これは単なる思考実験だ。 そして「そういう並べ方があったか!」Googleに気づかされる場合もあるだろう。ここで記事の冒頭で触れた、「私の以前からの問題関心」を記した以前の記事を一つ挙げる。

plousia-philodoxee.hatenablog.com

 

 言葉が集まっているところには、なんらかの文脈、世界観、秩序、有機的な連関などがなければ、人はそこから目を背けたくなったり、時間が経てば簡単に飽きてしまうのではないか。

 いろいろな人がいろいろなことを書き込んでいいと思う。ただし、それをうまく整理するしくみがなければ、それらはうまく活用されないままサーバーのメモリーを食い潰し続けるだけになってしまう。大量のコンテンツと人間との関わり方について、考えておかなければ、ビッグデータとは別のところで、もったいないことをしていると思う。

 

最後にちょっとした喩えを。

 冷蔵庫の中に、次から次へと食材が詰め込まれていく。整理しなければ、中にあるものを把握できなくなってくる。

自分だけではない。自分の知人や友人も次々と、めいめいが詰め込みたいものを思いつくままに詰め込む。

そんな冷蔵庫の中身を把握し、中のものをうまく活用できる人がいるだろうか。

 

ネットはどこもかしこも、「あふれ返る冷蔵庫」であふれ返っている。

 

 

 ちなみに冒頭で登場した柄谷行人の著作はこちら。

世界史の構造 (岩波現代文庫)

世界史の構造 (岩波現代文庫)

 

 

哲学の起源

哲学の起源