しるしのつながり

 私はよく誤解をする。「〜は〜だからではないか?」「〜と言ったあの人の意図は〜ということなのではないか?」「〜というこの状況は〜ということを意味しているのではないか?」など、それはもう色々なしかたで誤解する。

 

 「精神的な距離は物理的な距離として表れる」と心理学の本などによく書かれている。これを逆手にとって、物理的な距離(つまり相手との体の距離)を縮めることによって、精神的な距離を縮めようとする、というようなテクニックが紹介されていたりもする。

 

 たとえばよく会う人がいて、その人がなんとなくいつも自分と距離を置いてしゃべるように感じる場合、その人から見て自分は少し距離のある人物ということなのではないかと考えたりする時がある。「物理的な距離」「精神的な距離」を表す「サイン」であると考えるのだ。

 

 しかしそれがいつも正しいとは限らない。たまたま何か別の事情で距離が離れていただけであって、特にきっかけもなかったにもかかわらず、ある時から距離が縮まったりすることもある。そういうとき、「ああ、あれは別に『サイン』なんかじゃなかったんだな」と思い直すことになる。この人を仮に「田中さん」としよう。

 

 その一方で、精神的な距離が物理的な距離として表れるような人も確かにいる。この人は「山田さん」としよう。田中さんも山田さんも私から距離を置いているという点では同じなのに、一方は「サインなし」、他方は「サインあり」である。それは外からなんとなく見ていたのでは区別がつかない。その場の「雰囲気」「文脈」(脈絡)などによって、サインの有無を判別しなければならない。

 

 何が何のサインになっているのか、あるいはいないのか。あるものを何のサインとみなすかは、時と場合によって異なるだけでなく、人によってもそれぞれ違う。りんごを「知性」のシンボルと考える人間がいる一方で、それを「一番好きな果物」と考える人間もいるし、さらには「両方」と考える人間もいるのだ。

 

 それではある著名人の発言についてはどうだろう。受け取る側がその発言の文脈や意図、雰囲気などを無視して各人の思いつくままにそれを解釈していたらどうなるか。それぞれが異なる「サイン」をそこに読み取っていたらどうなるか。とても厄介だ。

 

 しかも多くのやりとりというのは表面的なもので、その背後にあるものについては明らかにされないまま進んでいったりする。たとえばここに二人の人間がいて、Aさんは

 

a→b→c→d

 

という筋道で「d」という結論に辿り着き、「d」だけを表面に出して主張し、その一方でBさんが

 

a'→b’→c'→d

 

という筋道で同じく「d」という結論に辿り着き、「d」だけを表面に出して主張していたら、AさんとBさんは表面的には「意気投合」する可能性がある。たとえaとa'、bとb'、cとc'がそれぞれ「正反対」の内容であったとしても、である。それらが明るみにならなければ、AさんとBさんは呑気に意気投合していられるのだ。もしこれを「平和」と呼ぶのであれば、これ以上の皮肉があるだろうか。

 

 しかしネット上でのいろいろな人のやりとり、特に政治や経済などの「硬い話題」ほどそういう表面上の一致が少なくない。Twitterでユーザー同士が意見をぶつけ合うことも今では日常的な光景になったが、私から見れば異常な光景だ。自分の番になると毎回必ず140字以内で返事をしなければならないやりとりなど、まともな議論とは言えない。お互いにある程度の共通の知識や思想、態度などを共有しているならば、言葉をうまく節約して議論が成立することもありえようが、全く顔も名前も知らない、何を共有できているかもわからない相手と、毎回140字以内でやりとりするなんて、はっきり言って不自然だ。そんなプラットフォーム上で、表面的なものしかやりとりできないのは目に見えている。深いところを見せ合うにはとうていスペースが足りない。

 

 誤解のないように書いておくと、私は別にTwitterに反対しているわけではない。便利なものだし、いい使い方も色々あるが、あまりいいとは言えない使い方もあるということを指摘しているだけだ。そしてそういう使い方の方が流行ってしまっているのではないかとも思ったりする。いい使い方よりも悪い使い方の方が流行りやすい。道具については得てしてそういうところがあるのかもしれない。ネット上では何が何のサインなのか、リアルの場合以上に注意が必要だろう。

 

 特定の何かに、いつもサインが含まれていると考えるのは間違いだ。またそのサインがいつも同じものとも限らない。しかし油断すると私はすぐに、このことを忘れてしまう。だからこの場で備忘録としてこの記事を書いた。このことについてはまた掘り下げようと思う。