権威主義はどうやって生まれるのか

 

合理主義と権威主義

合理主義について

 「誰が言ったかではなく、何を言ったか。」という言葉をときどき目にする。これは合理主義(rationalism)と呼んでいい。そこでは何かを言った人間が偉いかどうか、社会的地位が高いかどうか、有名かどうか、経済的な成功者かどうかなど、言った人間についての属性は問題ではなく、言われたことが正しいかどうかを自分の頭で考えて判断することに重きを置く。 この考え方は確かに正しいように思える。ここで正しいとは合理的であるということと同義である。3.11以降、原発に関する政治家や専門家(とりわけ御用学者)の「ウソ」が主にネットを通じて次々と暴露され共有され、そのうち大衆は自分自身で情報を集め、考えるようになった。ソーシャルメディアでいろいろな人の発信する情報に触れ、「本当のところはどうなのか」「なにが真実なのか」について、市民は慎重に判断する風潮も活発化したように思える。

権威主義について

 しかしその一方で、相変わらずネット上でもリアルでも、著名人の発言や過去の偉人の名言などが繰り返し引用されたりする事実がある。冒頭の合理主義に対して、こちらは「何を言ったかではなく、誰が言ったか」を重視する立場の人々によって作られている事実であり、権威主義(authoritarianism)と呼んでいい。誰が言ったかと何を言ったかの二つは、どんな時代や地域においても、常に並存し、その時々の状況によって重心が変わってきた。震災の以前と以後とでは、権威主義から合理主義へと重心が移ったけれども、それがいつまで続くかといえば、そう長くはもつまい。

規範と実証

 両者のバランスについて、もうひとつ別の視点が考えられる。「どうあるべきか」(規範:normative)と「実際にどうか」(実証:positive)という区分である。「誰が言ったかではなく、何を言ったか」を重視する合理主義の態度は、規範を重視する立場ともいえる。たとえ偉い人物や社会的地位の高い人物、あるいは経済的に成功を収めた人間であっても、間違ったことを言う可能性があるからだ。注意しておきたいのは、ここでは規範について一定の論理的な手順を経て判断が下せることを合理的であると考える立場を取っているが、合理主義それ自体は、必ずしも規範的な判断を生むとは限らない。つまり合理的であっても規範的ではないような判断もありうる。

 多くの者は自分で規範を見極めることができないとすると、合理主義が社会に浸透するのは難しい。こうした事情を勘案すると、実証的には依然として権威主義が存続することになる。規範について自分ひとりで判断できないならば、それなりの評価を得ている人間が言っていることをとりあえず信頼することにしておけばいいという考え方も妥当であるといえる。 本来、あることがらについて正しく判断するには合理主義の方が望ましいにも関わらず、権威主義が未だに残っている事実を説明するにはどうすればいいのか。それには、権威主義がどのようにして生まれ、持続するのかということを考えなければならない。合理主義を主張する人の多くは、権威主義がいかにして生まれ、どんな機能的メリットがあるのかということを考えず、権威主義はそれ自体としてよくないというようなトートロジカルな立場で議論を進める。私はそれには反対だ。真に合理的であろうとするならば、権威主義がいかにして生まれるのかということも考えた上で、それを否定すべきであると考えるからだ。 そこで権威主義の発生と持続には一定の合理性、必然性のようなものがあるのではないかということを具体的なケースを想定しながら考えてみることにする。

権威主義の妥当性

 権威主義の妥当性について考えるために、こんなケースを考えてみよう。ここに600万人のアクティブユーザーを抱えるオンラインコミュニティーがあるとする。合理主義にしたがうならば、個々のユーザーは自分以外の599万9999人の発言について、公平に評価しなければならない。そんなのは面倒だ。もっと効率的な方法を選びたい。それではどうするか。ユーザーを不公平に扱う。そこから権威主義までの距離はごくわずかだ。ある問題の評価にあたって、意見を優先的に選択された個人というのは「権威のある人」ということになる。

 ここで注意すべきなのは、不公平に扱うとか優先的に選択するという場合に、どういう基準で不公平さや優先が生まれているのかということである。ここでは仮に、これまでに誰の発言が多くの支持を集めたかという多数決の結果を反映して、誰と誰をどれくらい不公平に扱うか、あるいは誰の発言を他の者の発言より優先するかが決まると考える。これは自分自身でなく他の誰かがどう評価したかに左右されるので、多かれ少なかれ判断の独立性を手放しているといえる。

 興味深いのは、そこで「他の誰か」と呼ばれている人々の判断は互いに対等に扱われているということである。たとえばFacebookである有名人の投稿が多くの「いいね!」を獲得しているとき、私たちは自分よりも先に押された「いいね!」についてはひとつひとつを対等に評価している。500なら500、10000なら10000の「いいね!」の間に優劣はない。けれども結果としてより多くの「いいね!」を獲得している投稿とそれ以外の間には優劣をつけている。ある種の公平さが、結果としての不公平を生むというしかたで、権威主義は成立する。

群選択の結果としての権威主義

 これは国や地域、時代を問わず、人類の大多数が選択した方法なのではないか。つまり群選択(group selection)*1の結果として権威主義が生き残ったのではないか。集団の生存を条件付ける環境が劇的に変化する場合には、権威主義の方が意思決定を速やかに行えるため、集団レベルでの生存確率を高めるだろう。「集団レベル」と書いたが、このときの集団はどこからどこまでかという境界を定める手続きは、個人とは別個に決定されている。個人は、あらかじめ指定された集団の範囲を所与として、その集団内の他者の判断はそれぞれ対等に扱うが、集団の内外の他者の判断は対等に扱わず、常に集団の内部の他者の判断を優先すると考える。

 歴史とは、勝者にとって都合のよい事実や解釈の集積であると捉えられることも少なくないが、それとは全く別に、権威主義にまつわる群選択の過程を記録したものであると考えることもできる。こうした歴史観に照らせば、群選択の結果として特定の権威がいかにして権威として成立し、維持され、時には覆されるのかということが、歴史の中で語られているといえる。それをうまく解読できるかどうかは、歴史に向き合う者の力量しだいである。

現代における合理主義と権威主義

 それでは現代はどうか。合理主義と権威主義のどちらが望ましいのだろう。Twitterを開けば実に色々な人々の色々なつぶやきが溢れている。Facebookもまた同様である。ネット掲示板は以前からあったが、ソーシャルメディアの登場以降は特に、以前に比べてはるかに多くの人の意見にアクセスすることができるようになった。もちろんよく言われるような、便所の落書き的な書き込みも少なくないが、中には鋭い意見もある。名前もわからない個人の、鋭い意見が。現代でなければ、社会を構成する個々人の意見をこれほど簡単に参照することは技術的に困難であった。技術の進歩はこうして、合理主義と権威主義バランスを決める条件を変えた。

 集団の概念は依然として客観的に定義が可能であるため、定義された複数の集団のあいだで群選択の論理がはたらき続けることになる。したがって群選択の結果としての権威主義は現代でも生き残るだろう。私はといえば、国籍や学歴などにもとづいて私が所属する集団を特に意識せず、一個人のいわば趣味として、合理主義と権威主義のハイブリッドを採用している。つまり、すでに権威があるとされている人々の意見も参照しつつ、そうでない個人の意見の発言についても、その内容の妥当性を検証するという立場をとっている。それは権威が正当なものかどうかを確かめるためでもある。権威が正当に評価されているならば、権威主義に基づいてものごとを判断することにもまた、一定の合理性があるといえるからだ。これはもちろん、すでに述べた権威主義のメカニズムや群選択とも異なる立場からの判断である。現代では個々人の意見を検証することも、権威主義の妥当性を確かめることも、技術的にハードルが低くなっているという状況を反映した立場であるともいえる。

 

*1:「集団選択」と訳される場合もある。いずれにせよ、「自分」にとってではなく、「自分が所属する集団」にとって望ましいと個人が想定する選択を指す。「生存できるかどうか」を集団というレベルを基準に判定するため、ときとして自らの生存と逆立する場合もある。