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権威主義はどうやって生まれるのか

 「誰が言ったかではなく、何を言ったか。」という言葉をときどき目にする。これを「哲学的真摯主義」(philosophical sinceritism)とでも呼ぶことにする。

 

 本当は誰が言ったかなんて重要ではなくて、言われたことの内容の方を考えるべきだと。

 

 それを言った人が偉い人、社会的地位の高い人、有名な人、成功者であるかどうかは問題ではなく、言われたことが正しいかどうかを自分の頭で考えて判断することが必要だと。

 

 これは確かに正しいように思える。3.11以降、原発に関する専門家の「ウソ」が次々と暴露され、大衆は自分自身で情報を集め、考えるようになった。ソーシャルメディアでいろいろな人の発信する情報に触れ、「本当のところはどうなのか」「なにが真実なのか」について、市民は慎重に判断するような風潮も活発化したように思える。

 

 しかしその一方で、相変わらずネット上でもリアルでも、著名人の発言や過去の偉人の名言などが繰り返し引用されたりする事実がある。相変わらずの権威主義」(authoritarianism)。この事実をどう説明するか。

 

 「どうあるべきか」(規範:normative「実際にどうか」(実証:positive)とは根本的に異なる態度を要請する。「誰が言ったかではなく、何を言ったか」を重視する態度というのは、規範を重視する前者にあたる。

 

 確かに「どうあるべきか」を問題にするのであれば、「誰が言ったかではなく、何を言ったか」ということは重要かもしれない。しかし実証的に考えると、依然として権威主義が存続している事実が一方にある。哲学的真摯主義と権威主義。この背反をどう説明するか。

 

 それには、どうして権威主義が生まれ、持続するのかということを考えなければならない。権威主義の発生と持続には一定の合理性、必然性のようなものがあるのではないか。

 

 ここに600万人のアクティブユーザーを抱えるオンラインコミュニティーがあるとする。哲学的真摯主義に則るならば、個々のユーザーは自分以外の599万9999人の発言について、「平等」「公平」に評価しなければならない。そんなのは面倒だ。もっと効率的な方法を選びたい。それではどうするか。ユーザーを良い意味で「不平等」「不公平」に扱う。そこから権威主義までの距離はごくわずかだ。ある問題の評価にあたって、意見を優先的に選択された個人というのは「権威のある人」ということになる。

 

 そしてこれは何も私に限らず、国や地域、時代を問わず、人類の大多数が選択した方法なのではないか。つまり群選択(group selection)*1の結果として権威主義が生き残ったのではないか。集団の生存を条件付ける環境が劇的に変化する場合には、権威主義の方が意思決定を速やかに行えるため、集団レベルでの生存確率を高めるだろう。

 

 それでは現代はどうだろう。権威主義と哲学的真摯主義のどちらが望ましいのだろう。Twitterを開けばそれはもう色々な人の色々なつぶやきで溢れている。Facebookも同様だ。ネット掲示板は以前からあったが、ソーシャルメディアの登場以降は特に、以前に比べてはるかに多くの人の意見にアクセスすることができるようになった。もちろんよく言われるような「便所の落書きのような書き込み」も少なくないが、中には鋭い意見もある。名前もわからない個人の、鋭い意見が。

 

 群選択としては、おそらく現代でも権威主義は生き残るのだろうと思われるが、私は個人的には哲学的真摯主義とのハイブリッドを採用している。つまり、すでに権威があるとされている人々の意見もフォローしつつ、権威があるとはされていない個人の意見についても発言内容の妥当性を検証するという、まあありがちな立場だ。

 

 哲学的真摯主義を主張する人の多くは、権威主義がいかにして生まれ、どんな機能的メリットがあるのかということを考えないで議論を進める。私はそれには反対だ。真に哲学的に真摯であろうとするならば、権威主義がいかにして生まれるのかということも考えた上で、それを否定すべきであろう。

 

 

*1:「集団選択」と訳される場合もある。いずれにせよ、「自分」にとってではなく、「自分が所属する集団」にとって望ましいと個人が想定する選択を指す。「生存できるかどうか」を集団というレベルを基準に判定するため、ときとして自らの生存と逆立する場合もある。