読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

イライラを活かす

 私は基本的に怒らない。それは疲れるということもあるけれども、なにより「怒っても問題は解決しない」と経験的に感じているから。怒るくらいなら何が問題かをきちんと話し合う方が前に進める。しかしだからといって、イライラしないかというとそうでもない。いやむしろ、人並み以上にイライラに敏感だとすら言えるかもしれない。「そんなことでイライラしてるの?」と周りから言われることもある。

 

 イライラの原因はいろいろある。もどかしいと思ったり、鬱陶しさを感じたり、理不尽だと思ったり。その中で一つ、「理不尽だ」と思った時には、自分にとって喜ばしいときでもある。理不尽だと感じたということは、そこに理が尽くされていない、つまり隅々まで通るような理屈がないように感じられたということであって、それは自分がそのことについてちゃんと理解できていないか、あるいは既存の枠組みが実は不徹底なまま成立してしまっていることに気付かされるチャンスであるからだ。

 

 理不尽とか筋が通らないとかいうことでイライラしている時には、問題を発見するときの一つの主要な「きっかけ」に突き当たっているということがあるのだ。それは初めから私自身に自覚されているとは限らず、しばらく時間をかけて反省した後に、何が問題の種であったのかがようやく見えてくるということがよくある。そして何が問題であるのかが正しく捉えられたときに、問題はほとんど解決している。

 

 こうした一連の流れを遡ると、そもそも私は何をきっかけとして問題を解決することができたかといえば、「私がイライラしたこと」に行き着く。問題解決の原動力としてのイライラ、あるいは問題発見のためのイライラである。それは意識的にイライラしたのではない。無意識だ。そして意識的に探していたのでは見落とすようなものでも、無意識から生じたイライラの網には引っかかる。それはいわば、意識の側の「私」に代わって、自分にとって重要な問題を発見してくれる探偵のようなものだ。

 

 イライラしているとき、「イライラの当事者としての自分」は、ただただ嫌な状態なのかもしれないが、心の中のもう一人の自分、当事者を外から見ている「観察者としての自分」は、「さあ今回はどんな問題に行き当たったのか」と喜んでいる。そのうち前者は影を潜め、後者が全面化するようになる。このようにして「考える」ということが始まる。私は何にイライラさせられているのか、そこにどんな問題があってイライラしているのか、そういうことに丁寧に向き合い続けていると、そのうちハッキリ見えて来るものがある。その頃にはとっくにイライラなど消えている。それはただのトリガーに過ぎなかったのだと気付く。

 

 感情とは、振り回されているうちはやっかいでしかないのかもしれないが、向き合い方を変えるとなんとも便利なものだ。