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集団を支配する無意識

 「集団がまずあって、個人というものがそこから分化して発生してきたという順序だと私は考えている」というようなことを以前の記事に書いた。しかし、今は「個人」(individual)というものが生まれた後の時代であるから、「個人から集団へ」という順序もあるわけで、公衆(public people)大衆(mass)、あるいは群衆(crowd)という言葉を使うときには、個人が集まった結果、単なる個人の総和とは異なる性質を示すようになるという意味であることも少なくない。おそらくどちらの順序であっても、「集団」というものが示す、なんらかの本質的な性質というものが確かにあるだろう。そういうことをこの記事では書こうと思う。

 

 個人がバラバラに存在していたときには、それぞれの個人は自覚的であって、自分の頭で考え、決断し、意識的に行動することができる。しかしひとたび集団になると、各々の個人も無自覚的、無意識的な性質をより顕著に示すようになり、集団は無意識に左右されがちになる。集団が流されやすく、また特定の暗示などに影響されやすいのは、個人の場合にはある程度機能していた、意識による抑制が弱まり、より無意識の優位が強まるためであろう。個人を相手に宗教の勧誘をしてもうまくいかないが、集団が参加しているイベントなどでは宗教の勧誘に乗りやすくなる。

 

 先日購入したギュスターヴ・ル・ボン『群集心理』(講談社学術文庫の第1章、「群衆の一般的特徴」において、彼は群衆に特有な性質がどのように生じるかということについて、3つの原因を挙げる。少し引用しよう。

 

第一の原因は、次のようなものである。すなわち、群衆中の個人は、単に大勢のなかにいるという事実だけで、一種不可抗的な力を感ずるようになる。これがために、本能のままに任せることがある。単独のときならば、当然それを抑えたでもあろうに。その群衆に名目がなく、従って責任のないときには、常に個人を抑制する責任観念が完全に消滅してしまうだけに、いっそう容易に本能に負けてしまうのである。

 第二の原因である精神的感染ということもまた、群衆の特性の発揮と同時にその動向を決定するのにあずかって力ある。感染というのは、容易に認められる現象ではあるが、まだ明らかにされていない現象であって、催眠術に類する現象と関連させねばならない。これについては、やがて研究しよう。群衆においては、どんな感情もどんな行為も感染しやすい。個人が集団の利益のためには自身の利益をも実に無造作に犠牲にしてしまうほど、感染しやすいのである。これこそは、個人の本性には反する傾向なのであって、人が群衆の一員となるときでなければ、ほとんど現し得ない傾向である。

 第三の原因は、はるかに重要なものであって、群衆中の個人が、単独の個人の特性とは往々全く相反する特性を発揮する起因ともなるものである。私は、被暗示性ということをいいたいのである。上述した感染ということも、もとより、この暗示を受けやすい性質の結果にすぎないのである。

 (同書32〜34ページ)

  この本の原著は1895年に初版が出ている。19世紀末の学問的状況ゆえの色々な制約、限界はあるけれども、彼が考えようとしていることの本質は、現代の状況と照らし合わせてみても大いに学ぶところがある。特に生理学における脳の研究の進歩、とりわけ意識や無意識についての研究と照らし合わせながら彼の議論を解釈していくと、色々なことがわかるように思う。また彼自身も、当時の生理学の研究をもとに考察を進めている跡が記述からうかがえる。

 

  人間は生活の中のあらゆる決断の9割以上を、無意識のうちに行っていると言われる。ニューロマーケティングステマなどという言葉が生まれる背景には、無意識についてのこのような見方が潜んでいる。すなわち、「私たちを見えないところから操る存在」としての無意識観である。たとえ個人のときであっても、無意識の領域に、意識の側からアクセスすることはほぼ不可能であり、催眠をかけたり瞑想を行ったりすることによって、私たちはそこに眠るものの一部をかろうじて引き出せるに過ぎない。また意識と無意識の対比をすると陥りがちなのは、意識的に何かを考えているときの無意識の影響を見落としがちであるということである。私たちはたとえ意識的にものを考えているときであっても、無意識の影響を知らず知らず受けている。

 

 無意識の優位は、個人のときですら決定的であるが、集団の場合ともなると、優位はますます顕著になる。いや、むしろ集団において何かが自覚的に決断されるということは、もしかしたら原理的に不可能なのかもしれないとすら私には思える。少なくとも個人がもっている「自覚」というものと、集団が持っている「自覚」というものが同じであるとは思えない。もしそうだとしたら、私たちが自由や平等といった、諸々の価値を確保するべく信頼しているところの民主主義的意思決定とは、一体どういうものを指すということになるのだろうか。自覚的であるということが意思決定においては当然の条件であったはずなのに、それは集団ではありえないものだとしたら。たとえそれが直接民主制でなく、間接民主制(代議制)であったとしても、無意識が圧倒的優位を占める、私たち諸個人から選ばれたところの議員たちによる議論というのは、私たち市民の側の、無意識が圧倒的な優位を占める空間で生まれてきた、矛盾だらけの主張をうまくつなぎ合わせるという、議論の本旨とは別の行為に、大きく制約されてしまうということはないだろうか。民主主義国家において「空気」とは、そういう暗黙の制約を指すものなのではないか。

 

 もし仮にあらゆる集団というものが、「集団としての意識」というものを持ち得ず、したがって個人における意思決定と同様の意思決定を集団に求めることには無理があるのだとしたら、民主主義はうまく機能するだろうか。多数決という行為は、個人がそれぞれ独立に行うものであるから、意識的な選択ということがありうると考えられそうだが、その選択を行うときに、集団による暗黙の影響を受けていないと果たして言えるだろうか。私にはどうもその点が疑わしい。

 

 私たちが無意識のうちに拠り所としている暗黙の判断基準、土台というようなものを仮にわたしたちの「文化」と呼ぶのであれば、私たちは一体どんな文化の中で生きているのだろうか。普段私たちはその存在を意識的に省みるということはしないが、それでも私たちが何かを判断するとき、どうしてもその影響を免れることのできない、ブラックホールのような存在である文化。 

  

 無意識は、権力や政治体制、制度、文化、意識的な思考など、およそありとあらゆるものの上位のレベルにあって、それらを生み出したり変化させたり消し去ったりする力であるとも考えることができるのではないか。それはもっとも根底的な力であるのではないか。

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