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社会の中に「うなり」はあるか

 時系列上で、ある量が増えたり減ったりする「振動」を繰り返すことによって、そこにはあるリズムが生まれる。週に一度のドラマを例にすると、ドラマを見る日は1、見ない日は0である。なんらかの行動をするかしないかで考える場合には、1か0かという形でリズムを取り出すことができる。特にそれが「習慣」になっている場合には、安定的なリズムをとると考えられる。それはもはや、無意識の制御下に置かれたリズムである。そしてリズムは「波」によって生まれる。

  

 波に関連して「うなり」(beat)というのがある。ある周波数をもった音が、別の周波数をもった音と混じって、新しい周期をもった音の波が生まれる。こうして音は「うなる(唸る)」。うなりの周期は、二つの波の周期の最小公倍数になっている。その最小公倍数が大きかったら、私たちはそれが「うなり」であると気がつかないかもしれない。

 

 歴史の議論で、70年とか100年とかの周期的な変動が取り上げられる。しかし人生に一度経験できるかできないかというような長さの周期的変動は、主観的にはもはや「周期」ではない。そしてそれが、複数の波が重なって生まれた「うなり」であると言われても、納得することは難しい。それでは短い周期のリズムならどうか。ハウスやテクノは120bpmとか150bpmとかの比較的早いリズムをとる。短時間のうちに同じパターンが繰り返されるから、波やうなりを認知しやすい。一般に音楽は、短時間のリズムを扱うという意味では、歴史とは対極にあるといえる。歴史は長期のうなりばかりがテーマになる。「時代」という概念がそうさせるのかもしれない。あるいは扱う時間のスパンが長すぎるせいで、リズムもまた長いと錯覚してしまっているのかもしれない。

 

 それでは私たちが営む社会の中に、リズム或いは「うなり」はあるのだろうか。あるとしたら、どんな長さのどんなものがあるのだろう。

 

 冒頭にドラマのことを書いた。たとえばそれが月曜にあるドラマだとすると、毎週月曜の特定の時間帯に、Twitter上でそのドラマについてのツイートが増えるということが起きる。もしそこで複数の人間のあいだでやりとりが交わされるとしたら、それはドラマの放映時間に依存して決まってくる相互作用である。それが毎週起きるなら、おおよそ週単位のリズムをもった周期的変動ということになってくる。新聞やニュースは毎日、雑誌は週単位や月単位のリズムを生み出しているかもしれない。リズムの中身はともかく、それがリズムを持って動いているとしたら、リズムについての体系的知識が分析の役に立つかもしれない。

 

 さて、それでは1日周期のリズムと週単位の周期のリズムとが重なると、そこにはどんな「うなり」が生まれるのだろう。あるいは週単位のリズムと月単位のリズムではどうか。私は特に世論にリズムがないかということに関心がある。しかし考えを進めようとするとある疑問が浮かぶ。「うなり」と言えるほどのリズミカルな変動が世論という現象にはあるのだろうか。つまり世間はそれほど長きにわたって特定の話題に関心を持ち続けるということがあるだろうか。世の中で数年続く話題というのは多くない。大抵の話題は1日から数日、長くてもせいぜい数ヶ月という長さで消えていってしまう。その中にリズミカルな変動を見つけるのは難しい。原発関連、STAP細胞アベノミクス集団的自衛権イスラム国・・・。これらは比較的長い期間持続した話題だと言えるが、日常で報道されるほとんどのトピック、どこでどんな事故があったとか、誰が誰を殺したとか、どこそこの企業の不祥事とか、そういうことは世論として持続しないですぐに消えていってしまう。そして新しい話題が次々に現れる。

 

 選挙(たとえば4年ごとの衆院選)なら、必ず一定のリズムで行われるから、考えやすいかもしれない。選挙の周期は制度的に決まっていて、それに合わせて他のことが周期的に変動していれば、その二つの間には「うなり」があると考えられないか。「他のこと」には、政治のことや社会のこと、経済のことなど、いろいろなことが含まれるだろう。もしそこで何か不具合が生じているとしたら、それはうなりになっていない、つまり二つの周期がうまく重なることができていないことに原因があるのではないか。たとえば4年周期の波に、他のもっと短い周期の波を重ねるというとき、それが1年周期や2年周期なら問題ないが、3年周期だったりすると、うまく4年で重ならない。そうするとうまくうなれない。政党や特定の政治家が信用を失うというときには、この「うなりの失敗」が潜んでいるように思える。

 

 社会におけるうなりの失敗の原因は、端的にはリズムの作り手による周期の調整ミスであるが、たとえば仮に特定の経済政策が実行されたとして、それが4年以内に功を奏するとは限らない。選挙のために経済が動いているわけではなく、政策による影響があるとしても両者は基本的には独立した波である。またその政策が3年で効果を発揮したとしても、そのあとでマイナスの変動が生じて効果が打ち消され、4年周期との間にズレが生まれてしまうこともありうる。これは単純なケースであるが、実際には効果を発揮したかどうかがわからない状況で、なんらかの外的なパラメータの変化によって新たなマイナスの変動が生じ、効果が発揮されたかどうかはわからないまま、マイナスの変動だけが目立ってしまうということがありうる。グローバル化によって相互依存が進み、環境の変化が激しい状況では、周期的変動を人為的に反復させることは難しい。経済には株価や景気などの「波」がつきものであるが、自然に生じる波と人為的な波とでは、この点に根本的な違いがあるように思える。

 

 音楽のことを例に挙げた。ハウスやテクノの曲を、切れ目なく自然につなぎ合わせるのがDJの腕の見せどころである。もしつなぐときに「不自然さ」があれば、聴衆はそれを逃さない。リズムを人為的に管理するとき、それがただの曲ではなく、集団的な現象である場合には、調整はDJのようにはいかない。うなりの失敗は社会の中に存在する周期的変動について、周期の捉え違いだけでなく、人為的調整の困難さにも原因があるのだろう。しかしまずはやはり、周期の正しい認識の方を考えたいと個人的には思う。3年周期のものを1年周期と勘違いしているとしたら、4年周期には合わせられないことに気がつかないままである。その辺の認識をよりよいものにできたら、社会の運営や管理ということがやりやすくなるのではないかと思う。