エビングハウスの実験と記憶について

 エビングハウス忘却曲線というのがある。最初に何かを覚えてから、時間が経つにつれてどれくらい忘れていくかということを曲線で表したもので、よく勉強法の話題などで取り上げられる。

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(出典:エビングハウスの忘却曲線 | SAKURA PRESS

 

 この画像に書いてある通り、理解できない暗記は1日で74%忘れ、1週間で77%、1ヶ月後には79%忘れてしまうということになっている。

 

 このサイトは厳密な書き方をしていると思うが、ほとんどの場合には「理解できない暗記」というような限定的な書き方ではなく、記憶一般に当てはまることであると誤解されるような書き方で書かれている。しかしエビングハウスによるオリジナルの実験がどのようなものであったかを確かめると、「あらゆる記憶は〜」というような一般的な解釈は誤りであることがわかる。

 

Wikipediaから引用しよう。Wikipediaが常に正しいとは限らないが、このエビングハウスの実験の場合は、正確に書かれていると私は考える。

  記憶の中でも特に中期記憶(長期記憶)の忘却を表す曲線。特に心理学者のヘルマン・エビングハウスによるものが有名である。

【実験】

エビングハウスは、自ら「子音・母音・子音」から成り立つ無意味な音節(rit, pek, tas, ...etc)を記憶し、その再生率を調べ、この曲線を導いた。結果は以下のようになった。

20分後には、節約率が58%であった。
1時間後には、節約率が44%であった。
1日後には、節約率が26%であった。
1週間後には、節約率が23%であった。
1ヶ月後には、節約率が21%であった。

※太字は筆者による。

(出典:忘却曲線 - Wikipedia

 重要なのは、この実験で被験者が覚えさせられたのは、意味のない文字列であるということだ。だから被験者にとって意味のある文字列の場合には、この曲線とは異なる曲線が現れることになる。たとえば「らみつしぷれせあどこ」と「あなたは明日死ぬでしょう」では本人にとって受け取り方がまったく異なるだろう。前者は無意味な文字列にすぎず、明日になれば思い出すことは難しいだろうと容易に想像がつくが、後者の場合はどうか。おそらくそう簡単に忘れることはできないのではないか。

 人が何かを記憶するとき、その「何か」は当人にとってなんらかの意味をもつことがらであることが多い。エビングハウスの実験のように、意味のない文字列を覚えさせられるということはむしろ稀である。「意味がある」と感じられるからこそ、人はそれを記憶しようと思うのであって、意味と記憶は密接に結びついている。私たちが日々の生活の中で目にするもの、耳にするものの多くは、私たちにとって意味をなさないことがらであることが多く、それらはエビングハウス忘却曲線にしたがって、時間とともに急速に記憶が薄れていくだろう。忘れることができなければ、人間はまともな生活を送ることが困難であるという意味では、忘れることは人間が生きるための重要な条件であるとすらいえる。記憶されることがらは、私たちの脳が重要度を評価してふるいにかけている。 

 一方コンピュータの場合はどうだろう。コンピュータは記憶するものを自ら選択しているだろうか。いや、あくまで選択するのは私たち、つまりコンピュータにとっての「主人」(利用者)である。コンピュータ自身にとっては、重要性は問題でなく、すべての情報はコンピュータ自身にとっては同列に記憶されているということになる。ある情報が他の情報に比べて重要であるとか貴重であるということを判断するのはあくまで「私たち」の側の問題であって、そういう意味ではコンピュータの記憶という表現は正確でないとも言える。つまり私たちが記憶しておきたいと考えることがらを私たちの外部に記憶するときに、コンピュータの記憶装置を利用しているにすぎない。外部化された記憶はあくまで、私たちにとって意味をもつような記憶である。このような意味で、コンピュータ自身にとっての記憶と人間にとってのそれとは、同じ言葉でありながら内実は大きく異なっている。

 近年は人工知能の研究が進み、深層学習(ディープラーニングdeep learning)の登場以降、人工知能「意味」というものを理解するようになってきている。

 以前に人工知能について、動画を紹介しつつ記事を書いたことがあった。 

人工知能と社会科学の関係 - ありそうでないもの

  そこで取り上げた動画*1の中では、人工知能「表現を獲得する」という独特な言い方で、私たちが「意味」と呼んでいるものを理解するようになってきたことが述べられている。すると、意味を理解するようになった人工知能にとっての「記憶」とは、一体どういうものなのだろうか。それは「意味」など気にすることなく、主人が一方的に指示した内容を記憶するのみだった、従来のコンピュータの「記憶」とは異なる意味をもつことになりはしないか、そのようなことを考えさせられる。

 私たちは何も意味のあることばかりを記憶しているとも限らない。意味のないことであっても、私たちは反復によって長期的に記憶し続けることができる。たとえば私は円周率を100桁まで暗記している。それは単なる興味から始まった挑戦だったが、何度も反復して唱え続けるうちに無意識にスラスラ言えるようになった。同様にして、私はパブロ・ピカソの洗礼名を覚えた。その長い洗礼名が具体的にどんな意味をもつのかは知らないが、やはり反復するうちにスラスラ言えるようになった。 

 それでもやはり、私たちの記憶の多くを占めるのは、私たちにとってなんらかの「意味」を持つことがらだ。ディープラーニングによって意味を解するようになってきている人工知能と私たちの境界は、徐々に薄れてきている。かといって、テクノロジーの進歩に対するナイーブな悲観論を唱えたいわけではない。そうではなくて、記憶ということの意味を、エビングハウス忘却曲線によらず、もう一度考え直す必要があるのではないかと思うのだ。

 最後に私の好きな攻殻機動隊の映画からあるセリフを引用して記事を終える。このセリフの意味は、この記事の文脈では、これまでとは違った「意味」をもつのではないかと私は考えるのだが、どうだろうか。

生命とは情報の流れの中に生まれた結節点のようなものだ。

主としての生命は遺伝子という記憶システムを持ち、人はただ記憶によって個人たり得る。

たとえ記憶が幻の同義語であったとしても、人は記憶によって生きるものだ。

コンピュータの普及が記憶の外部化を可能にしたとき、あなたたちはその意味をもっと真剣に考えるべきだった。

攻殻機動隊GHOST IN THE SHELLより)

 【参考】 

 松尾豊さんの著作や記事、映像を中心に紹介する。


TEDxUTokyo - Yutaka Matsuo - Computer will be more clever than human beings - YouTube