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考えの深さを測るものさし

 小さい頃から人間観察が好きなせいか、相手の考えの深さを推し量るということをよくする。「この人はよく考えているなあ」とか「この人は自分ではすごいこと言ってるつもりなんだろうけど、正直考えが浅いなあ」とか、内心色々なことを思う。

 

 相手の知性を量るものさしとして、よく「読書量」が引き合いに出される。最近ネットで「本を読まない女は地雷」という書き込みを見かけた。正直言いたいことはわかる。「わかる」というのは、私自身も本を読むことで自分の考えを深めてきたタイプだからだろう。

 

しかし読書量だけでは測れない場合もある。本はあまり読まないという人が、とても深い考えを持っていたりすることがある。IQの高い人でそういう人が多かったりする。経験的には、本を読む人100人のうち、70人くらいが考えの深い人であるのに対して、本を読まない人100人のうち、10人くらいが考えの深い人である、という感じがしていて、割合という意味ではやっぱり本を読む人の方が考えの深い人が多いということは言えるだろうと思う。

 

 それではそういう例外の人を「あの人は本をそんなに読んでいないから」といって考えが浅いだろうと決めつけてしまうのもどうも釈然としないので、他のものさしも考えた。

 

 私は基本的には

 

①読書量とその質

②対話

③表現されたもの

 

の3つで相手の考えの深さとか知性、別の言い方をすると「どれだけ自分の頭を使って考え抜いているか」がだいたい量れるのではないかと考えている。

 

 「読書量」というのは、なにも違う本を何冊も読んでいるというだけではなくて、同じ本を何回読み直しているか(学校の教科書のような読み方)、或いはどれだけ丁寧に読み込んでいるかということでも測れるものだと思う。だからたまに、「ものすごい数の本を読んでいるんだろうけれども、この人は表現が錯綜していてまとまりがないなあ」と感じるような文章に出くわしたり、「この人はいろんな本を乱雑に読みすぎて、自分でも自分の言っていること、書いていることがわからなくなってしまっているんじゃないか」と感じるような文章に出くわしたりする。それは質の低い読書だということになるだろう。

 

 「対話」というのは、やはり相手の知性がストレートに現れるものだと感じる。誰かと対話をしている時に、脳が最も活性化しているという話を以前に聞いたことがあるが、実際その通りかもしれないと思う。相手に言われたことに対して、即座に自分の頭の中で考えをまとめ、返す。いろんなことを知っていればいるほど、まとめる難易度は上がっていく。会話の展開を予想しながら自分が話す順番を変えたり、あえて話さないようにしたり、先回りしたりなど、いろんなテクニックが会話の中にはある。

 

 そして「表現されたもの」というのは、その人の書いた文章や、仕事、作品など、色々な形式がありうる。徹底してものごとを考えている人ほど、ひとつの表現から、その人の全体像が推し量れるような凝縮されたエッセンスがにじみ出ているものだと思う。ある作品ひとつを見れば、その人の核心に触れたように感じる、そういう表現ができている。それは「一本筋が通っている」とか「首尾一貫している」という風にも言える。また「表現されたものがどれだけシンプルであるか、或いは平易であるか」ということもまた、その人の考えの深さ、知性を表すものさしと言える。煙に巻くような難解な表現ばかりの人は、読書量は多いのかもしれないが、それを平易に表現できる人間に比べると理解は浅いということになると私は思う。

 

 

 私はよく、周囲から「上から目線だ」と思われたりするらしい。以前からずっとそうだった。それでこれまでに色々な人と衝突してきたし、これからもたぶん衝突するのだろうと思う。こちらがどれだけ気を付けていたとしても、こちらが相手の知らないことをいろいろと指摘していれば、それだけで相手は「上から目線」と感じたりするのだから、まあ結局そういうものなんだと割り切ることにしている。

 

少し話が逸れてしまったが、相手の知性を正当に尊重し、謙虚でありたいと改めて思う。上の3つのものさしとはまた別に、私自身の誤解によって相手の知性を低く見積もってしまったり、不当な非難をしたりする場合もあったからだ。