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天気みたいなもの

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トピック「本屋」について、幾つかの本をもとに「天気」について考えていることを書いてみようと思う。

 

 天気といえば、国境などおかまいなしに広がって刻々と変化していて、ある時ある国の上空にあった雲が、風に流されて他の国の上空に移動したり、あるいは他の国の地上に、雨やら雹やら雪やらの形で落下したりして自由に動き回っているもの、そういうイメージがある。

 

 電車の中でレオナルド・サスキンド『宇宙のランドスケープの序論を読んでいて、そこにこんな文章があった。

 

 第11賞と第12章は、天文学者宇宙論研究者、理論物理学者の研究成果の結びつきから現れた、宇宙に関する驚くべき新しい見解に関する章である。アンドレイ・リンデ、アレキサンダー・ヴィレンキン、アラン・グースのような宇宙論研究者によれば、世界は、巨大な多様性を持つ「ポケット宇宙」の無数の集まりからできている。ポケット宇宙ごとに、それぞれ特有の「天候」がある。つまりポケット宇宙ごとに、それぞれ特有の素粒子、力、物理学上の定数がある。宇宙に対してこれほど豊かな観点に立つことは、c写り学と宇宙論にとって深い意味がある。「なぜ宇宙は今のような状態なのか?」という疑問は、「これほど巨大な多様性の中に、私たちにぴったりの条件を備えたポケット宇宙を見つけ出せるだろうか?」という問いに取って代わられてしまうかもしれない。

(同書24ページより引用)

宇宙のランドスケープ 宇宙の謎にひも理論が答えを出す

宇宙のランドスケープ 宇宙の謎にひも理論が答えを出す

 

 

 そこでこの記事の冒頭に書いたような、まあ雲の動きでイメージされるような「天候」について、近頃読んだ、糸井重里さんと早野龍五さんの対談による本『知ろうとすること』の中で、中国の核実験の結果で大気中に拡散した放射能が、大気の流れで日本まで運ばれて、あるとき日本国内で放射能の測定値が異様に高くなったことがあった、という記述を思い出した。印象的だったから連想で浮かんだのだろう。

 

知ろうとすること。 (新潮文庫)

知ろうとすること。 (新潮文庫)

 

 

 そしてそこから、各駅停車の吉祥寺行きの電車の中で、「天気」というのは、「心」と同じように、機能として考えた場合には、いわゆる「大気の流れとしての天気」という狭義の天気だけではなくて、大気ではない何か別のものによって実現していながら、それでいて変化のパターンは狭義の天気と重なるような、機能的に等価な「天気的なもの」というのがあるんじゃないかということを考え始めた。

 

両側にはたぶん自分と同じく20代と思われる女性が座っていた。私は読んでいた本を閉じて目をつぶり、おでこの辺りを意識しながら考えていた。そしてそんな風に考えていたことについて、先ほど戻った自宅の片隅の、焦げ茶のテーブルの上に置かれたMacBook Airのディスプレイと向き合って考えている。

 

 それは「広義の天気」とでも呼ぶべきようなものだ。たとえば、私たちが普段何気なく使っている「空気を読む」の「空気」というのも、それこそ「空気」で呼んでいるからにはそこに「流れ」があるんじゃないか。そしてそれは狭義の天気の中で考えられているような「空気の流れ」と同じようなパターンで変化しているのではないか、そんなことを考え始めた。

 

 そういう広義の天気について考えるために、アナロジーを活用すべく、脳と心の関係について改めて考えさせられることになった。普通「脳」(brain)というときには、解剖学的な、あるいはハードウェアとしての、モノ(material)としての脳を表している。それは物理的な実在として存在しているという風に考えられる。それに対して「心」(mind)というときには、脳が果たしている「はたらき」とか「機能」(function)というところが問題になっているのであって、たとえば苫米地英人さんが「脳機能学」とか「機能脳科学(functional brain science)」*1という言葉を使うときには、機能としての脳を軸に考えているのだと私は理解している。

 

 苫米地さんを出したので、彼の仕方*2(或いは現在の脳科学の標準的な流儀)に倣って、脳を物理空間における「実在」、心を情報空間における「現象」(或いは情報空間における情報的実在)という風に分け、両者は連続している、ちゃんと対応しているという風に考えるならば、機能としての「心」を実現するのに、ハードウェアは「脳」以外もありうるのではないかということが疑問に浮かぶ。別の言い方をすれば脳と心は一対一対応だろうかということだ。たとえば人工知能を研究している人たちの基本認識では、「そんなことはなかろう」ということになって、心はなんらかの情報処理、アルゴリズムとして記述できるのだから、そのアルゴリズムを物理レベルで実現できるのであれば、脳でなくコンピュータ(電子コンピュータ、量子コンピュータ、DNAコンピュータのいずれ)でも構わないだろうということになる。そこでは情報処理のレベルの「心」に、物理レベルで対応するのは「脳」だけでなくいくつかのコンピュータもあるという風に考えられる。コンピュータもハードウェアとソフトウェアに分けて考えているのであって、ソフトとしてのアルゴリズム(「プログラム」というと少し物理寄りの概念になる)とハードとしての電子回路(半導体、チップ)がある。脳のハードも神経の回路である。

 

さて天気の話に戻ろう。広義の天気を機能として実現しているものは、大気だけではなく、いわゆる「空気を読め」の空気さんもそうなのではないか。

 

ちなみに「空気さん」とさんづけで呼んだのは、人と物を同じ次元で扱うのに、さんづけだと想像しやすい、考えやすいということを近頃感じている影響だ。エアコンさんとか、電車さんについても近頃「さんづけの存在」として配慮するようになってきた。基本的にはあらゆる存在をそういう形で配慮しながら生きていきたいと思っている。それは差別や偏見にとらわれたくないと考える私の、人生の基本方針のひとつだ。自分の周りに、車のエンジンと対話しながら運転する人がいるが、私はその人にとても強く共感する。それはたとえ今は私がエンジンと対話できなくても、姿勢の次元で通ずるところがあると感じるためだ。

 

狭義の天気(ハードとソフトが一対一対応の天気)では、ハードにあたるものが大気であり、それがどんな風に流れるかということで天気を表現している。それでは「空気さん」と先ほど呼んだところの「空気」はハードウェアと呼べそうか。どうも疑わしい。まだ情報空間に近い、やや抽象度の高すぎる概念であって、もう少し下の、抽象度の低いところで、上位の空気ときちんと対応するような物理的存在、実体が何かないかと考えている。

 

 ここで今度は、矢野和男さんの『データの見えざる手』という本の中で、集団の議論や交渉がどういう結果に至るかという問題を、計測可能な物理的指標で説明できないかという風に考えられていたことを思い出した。そこでは「手の動き」を指標として動き方のパターンを考えていて、装着可能なセンサ(ウェアラブルセンサ)でそれを測定していた。直感的には、或いは常識的には、人間の議論や交渉というのは、参加者どうしの心の動き、心と心の相互作用によって説明されるものという風に考えられがちだと思うのだが、もし「心」を指標として測定しようとしても、つまり脳内のなんらかの活動を指標としても、うまい説明がつかない、そういう事情があって、「そっちで説明するのが難航しそうなら、或いはそっちはまだ説明可能な水準まで体系化が進んでいないのならば、こっちの説明力の高い別の指標を用いる方がいいのではないか」という筋で「手の動き」に白羽の矢が立った、ということだと考えている。もちろん矢野さん自身がこのように考えていたかどうかはわからないけれども、こうした事情が背景にあったことは確かだろうと思われる。

 

 この本については以前も記事を書いたことがあった。

かつて自分がいた場所に、今いるその人 - TOKYO/26/MALE

 

 

 そのような流儀に倣って、空気さんの物理的対応物になりうるものを考えている。すぐに浮かぶのは媒体としての音(厳密には意味を成す文字列に対応する声)や音のない時間の頻度、空気さんを環境として構成する要素の一つとしての互いの身体的距離、「連想」という脳内活動に物理的に対応するなんらかの脳内現象、そういう指標たちである。

 

さて、そのような指標たちをして空気さんを語らしめると、我々人間をして語らしめる空気さんとどんな風に違ってくるだろうか、或いはそれらは同じだろうか。いやあ、気になるなあ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

*1:

 


苫米地英人 - 勝間和代,中村うさぎ - トーク - デキビジ 第67回 - 2011. - YouTube

 

 この動画の後半の方で、真空管アンプについて語るとき、苫米地さんは電子の動きを電子になりきったようなしかたで説明する。その仕方は、例えば先日メイヤスーの「亡霊のジレンマ」に着想を得て書いた「排除されえぬ実在」についての記事の中で紹介した、埴谷雄高が『死霊』について自ら語る映像の中でニュートリノの自我について考えるしかたと似ている。少なくとも一般的には生命でないと考えられている「モノ」などの存在について、「さん付け」で語るという私のやり方は、こうした人々から少なからぬ影響を受けていて、またそうした人々に私が深く共感するポイントの一つでもある。

 

*2:

 

 


苫米地英人-デキビジ1/4 - YouTube

  この動画の冒頭、「脳機能学と脳科学とは違うのか」という勝間さんの質問に対して、苫米地さんが機能脳科学とはどういうことを指すのか、そして脳科学とは本来はそういうものであることということを指摘している。私もこの立場に賛成だ。